今日の箇所(第二列王 7:3-10)には、どんな良い知らせも、伝える人が居なければ、良い知らせにはならないということが示されています。

 

イスラエル社会においては、ツァラアトに冒された者は、社会から隔離されていました。 4人のツァラアト患者が町の門の入り口に居たのは、そこで人々から食べ物を恵んでもらうためだったのでしょう。

 

アラム軍の包囲によって生きる術を失った彼らは、死を覚悟して、アラムの陣営に行くことにします。 ところが、彼らがアラムの陣営に行ってみると、そこには誰も居らず、すべてがそのまま残されていました。 神様がアラムの陣営に、戦車の響き、馬のいななき、大軍勢の騒ぎを聞かせられたので、彼らは、連合軍が自分たちを襲って来たと思い、夕暮れにすべてを置き去りにして急いで逃げたのです。

 

神様は、ご自分の民が知らぬ間に、お一人でアラム軍を打ち破り、救いのみわざを成し遂げられたのです。

 

ツァラアトに冒された者たちは、誰もいないアラムの陣営で空腹を満たし、金銀や衣服を奪います。 死を覚悟して行った場所で、大きな幸運に出会ったのです。

 

ところが、分捕り品を隠しているうちに、彼らは良心の呵責を感じ始めます。 飢え死にする人々が居るのに、自分たちだけがいい思いをして、しかもそれを黙っていたら、罰を受けるだろうと恐れたのです。

 

ツァラアト患者たちは、たとえ町の中に入ることができず、人々に物乞いをして生きる境遇に置かれてはいても、良心と憐れみの心を失いませんでした。 彼らは、その夜、サマリアの町に行って、門衛にアラムの陣営の状況を伝えます。 人々から汚れていると除け者にされていた者たちが、神様の御力の目撃者となり、良い知らせの伝達者となったのです。

 

予測することも察することもできない方法によって私の人生に働かれる神様の恵みをほめたたえます。 多様な人や状況によって、すべての瞬間を守り導かれる神様を信頼し、今日も平安に過ごすことができますように。 救いの喜びをためらうことなく周りの人に伝えて行くことができますように。 御霊の照らしと導きがありますように。