今日の箇所(箴言 30:15-33)には、「王である祭司」として召された私たちは、どんな状況でも、口から感謝と恵みの告白が流れ出る、堂々とした生き方をすることが求められているということが示されています。

 

飽くことを知らずに何かを要求し続けるなら、人々を苦しめることになります。 蛭の二人の娘のように、飽くことを知らずに「くれ、くれ」と求め続けることは、「よみ」、「不妊の胎」、水を注いでも乾いたままの「地」、いつまでも燃え続ける「火」のようです。

 

父を嘲り、母に従わない者の目は、烏にえぐり取られ、鷲の子に食われます。

 

鷲の道、蛇の道、船の道のように、おとめへの男の道も知ることはできません。 姦淫する女は、食べて口を拭うように、自分は不法を行わなかったと言います。 しかし、どれも神様の御前に隠れてはいないのです。

 

私たちは、すべてを知っておられる神様の御前で、満ち足りることを学び、正直に歩む必要があります。

 

自分の身分や能力に見合う地位や振舞いをすることが重要です。 立場に見合わない人が相応しくない地位を得ると、世は混乱します。 奴隷が王になること、愚かな者が満ち足りること、嫌われた女が夫を得ること、女奴隷が女主人の代わりになることなどがそうです。

 

反対に、小さくても、自分の能力以上の力を発揮する知恵者もいます。 夏の間に食糧を確保する蟻、誰にも攻撃されない岩間に巣を設ける岩だぬき、王もいないのに隊を組んで出陣するいなご、王の宮殿にさえ入り込んで住むヤモリなどがそうです。

 

また、自分の身分に相応しく、堂々と歩くものがいます。 獅子、おんどり、雄やぎ、そして王です。 私たちは「王である祭司」として召された者なので、分不相応に高ぶったり、愚かなことをしたり、すぐに怒ったりしてはなりません。 どんな状況でも、口から感謝と恵みの告白が流れ出る人格を身に着けて行く必要があるのです。

 

しかし、それは真似をしたり、気を付けたりしていれば、得られるものではありません。 イエスさまが私たちの内に住まわれるよう、主に自分自身を差し出す必要があるのです。 イエスさまが自分の内に居られるという信仰は、何事においても勇敢さと確信を与えてくれます。 自分ではなく、イエスさまが現れる時、私たちは王である祭司としての品格を保って生きて行くことができるのです。

 

この世で何かを得ようとする前に、まず主のみこころを求めることができますように。 小さな罪にも警戒し、罪を犯した時にはすぐに悔い改める成熟した信仰者になれますように。 罪が蔓延している世の中でも、常にイエスさまに自分自身を差し出し、王である祭司のきよさと品位を保ちつつ生きることができますように。 御霊の照らしと導きがありますように。