今日の箇所(使徒 26:1-12)には、福音宣教の核心は、復活について語ることであるということが示されています。

 

パウロは、アグリッパ王の前でも情熱を傾けて福音を証します。 彼は、自分の回心の証と神学的論証を用いて、アグリッパ王に大胆に福音を伝えます。

 

まずパウロは、自分が根っからのパリサイ人であり、ユダヤの慣習についてよく通じていることを強調します。 そして、自分が裁かれているのは、「神が約束されたこと」すなわち「復活」に自分が望みを置いているがためであるということを明らかにします。 この約束はユダヤ人たちがずっと長い間得たいと望んで来たものなのに、自分はそのことでユダヤ人から訴えられているのだと弁証したのです。

 

そして、「神が死者をよみがえらせるということを、あなたがたは、なぜ信じがたいこととお考えになるのでしょうか」と、やはりユダヤの慣習や信仰に詳しいアグリッパ王にチャレンジします。 パウロは、このように、王や特権階級の人間に対しても、たじろぐことなく、復活信仰を持つよう積極的に勧めます。 それは、イエスさまの復活を信じることこそが、信仰の核心だからです。

 

続けて、パウロはかつて自分が犯した過ちを回想します。 彼も一時はイエスさまの復活を信じることができず、ユダヤ人の熱烈な宗教的信念により、イエスの名に敵対することをたくさんして来ました。 彼は、自分がクリスチャンたちをどのように迫害したのかについて具体的に語り、その行いの背後に大祭司たちが居たことも伝えます。

 

パウロが自分自身の暗い過去について明らかにした理由は、自分を訴えた人々の心情を十分に理解していることを伝えつつ、クリスチャンを迫害する人々の考え方の間違いを指摘し、変化を促すためです。

 

このように、パウロは、自分の間違った知識がもたらした過ちを回想というかたちで伝えつつ、復活の主を信じる正しい知識を伝えたのです。

 

頭では主を知っていると考え、口では主を信じていると告白しながらも、肝心な復活信仰の喜びを味わっていませんでした。 この世が永遠に存在するかのように世のものに執着する自分の欲を捨て、復活の希望に生きることができますように。 主の復活、そして将来やって来る自分の復活をリアルなものとして捉えていくことができますように。 御霊の照らしと導きがありますように。