今日の箇所(使徒 22:17-29)には、自分に与えられた特権は、神様のみこころの通りに用いるべきものであることが示されています。

 

回心した後のパウロは、良かれと思ってユダヤ人たちに復活の主を伝えましたが、主の計画は異なりました。 エルサレムの宮で祈っていた時、彼は夢心地になって自分に語られる主を見ました。 この出来事は、回心後に初めてエルサレムを訪問した時に起きた出来事だったと思われます。

 

主は、ユダヤ人たちが彼の証を受け入れないだろうと言われます。 ユダヤ人たちの「頑なさ」を指摘されたのです。 パウロは、迫害者だった自分が回心したので、ユダヤ人たちは自分の伝える証に耳を傾けてくれるだろうと考えましたが、そうではなかったのです。 そこで、主はパウロを「遠く異邦人に遣わす」と言われます。

 

このように、パウロは、自分の意図ではなく、主の命令と指示に従って、自分は異邦人のための使徒となったのだと証します。

 

ところが、主が示された通り、ユダヤ人たちはパウロの証を受け入れません。 異邦人について言及すると、ユダヤ人たちは激しく怒って、パウロを殺そうとします。 神様が異邦人をご自分の民とされるということを、彼らは侮辱と考え、敵意を抱いたのです。

 

千人隊長は、騒動の理由を知るため、パウロをむちで打って取り調べるよう命じます。 その時、パウロは自分がローマ市民であることを明かします。 当時、ローマの市民権を持つ者は、どこでも優遇され、裁判を受ける時も特権と恩恵が与えられました。 パウロは、ローマ市民という特権を、福音宣教のために適切に用いたのです。

 

特権は、どのように使うかによって、良いものにも悪いものにもなります。 聖徒は、自分に与えられている特権を、自分のためではなく、神様の御名のために用いるべきです。 神様が与えてくださった特権を、みこころ通りに用いる時、特権は権力ではなく、神様の知恵となるのです。

 

何不自由なく、安全に平和に暮らせていること、特定の賜物が与えられていることなど、当たり前に自分に与えられている特権に感謝したいと思います。 すべてのことをご存知である神様が、私の人生を用いようとされる時、喜びをもって従うことができますように。 私の人生のかけらの一つも無駄にせず、主の御国のために用いて行くことができますように。 御霊の照らしと導きがありますように。