今日の箇所(哀歌 3:40-54)には、罪による苦難に苛まれる時、苦しみによる失意・落胆に引きずり込まれそうになりますが、本当にすべきことは、己の罪を調べて、神様のみもとに立ち返ることであることが示されています。

 

エレミヤは、ユダの民に向かって、「自分たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう」と訴えます。 エレミヤは、これが正しいことであるとは分かっていながらも、目の前の現状に嘆かずにはいられませんでした。

 

彼はこのようにユダの民に悔い改めを促しながらも、神様の御怒りを受けている状況について嘆きます。 神様は、ユダの民を赦さず、彼らに怒りを燃やして、まるで敗残兵を追撃するかのように、容赦なく死をもたらされました。 また、雲で天を塞いで、民の祈りを遮られました。 これは、ユダの民が、恵みの時に、ご自分から顔を背けて、ご自分のことを探し求めなかったからです。

 

神様の怒りに触れたことで、彼らはごみ屑のようになり、敵に嘲られました。 エルサレムの破滅を見守っていたエレミヤの目からは、涙が川のように流れました。 彼は、自分の涙は、神様がエルサレムを赦して顧みられる時まで続くと告白します。

 

彼の涙は、エルサレム陥落の時、バビロンの軍隊によって為された暴力、鳥を狙うように自分(ユダの民)を狙う敵、水が溜まった深い穴に自分(ユダの民)を投げ落とした後、その上に石を投げつけるような敵の行為から来るものでした。 この場合の「敵」とは、エレミヤのメッセージを非難していた偽預言者たち、もしくは、バビロンの軍隊とそれに協力したエドムであると思われます。

 

確かに現状に目を向けると、そこには不義や不条理が満ちており、嘆かないではいられないでしょう。 しかし、ユダの民の滅亡の原因は、あくまでも己の罪にあります。 それゆえ、罪深い行いを調べて、悔い改め、神様のみもとに立ち返ることこそが、最善の解決策なのです。 ただの嘆きは何の解決にもなりません。

 

罪による苦しみに埋もれず、その苦しみをもたらした罪に胸を打ち叩き、神様のもとへと立ち返ることができますように。 世が自分のことをあざ笑い、蔑んだとしても、神様を見上げ、御前にある平安で満たされますように。 自己憐憫に陥って、他人や周りの状況にばかり責任転嫁したくなる衝動から、主が守ってくださいますように。 御霊の照らしと導きがありますように。