今日の箇所(第二サムエル 6:16-23)には、真の霊的リーダーは、神様を喜ぶことにより人々を導く者であることが示されています。

 

ダビデは、主の箱を無事エルサレムに運ぶことができたことを、殊の外喜びます。 主の箱がエルサレムに入ると、ダビデは跳ねて踊ります。 主の箱は、あらかじめ準備されていた天幕に安置されます。 ダビデは、主の箱が無事に天幕の真ん中に安置されると、神様に感謝し、全焼の捧げ物と交わりのいけにえを献げます。

 

そして、王として民を祝福し、身分や性別によって差別することなく、輪型パンやなつめ椰子の菓子、干しぶどうの菓子を分け与え、皆が喜びの祝宴にあずかれるようにします。 イスラエルのすべての民は、神様がダビデを王とされたこと、そして今やイスラエルの聖なる都エルサレムに主が共に居られる恵みを喜び、感謝します。

 

イスラエル中が喜びに沸く中、ミカルだけは祝宴を共に楽しみませんでした。 彼女は喜んで踊るダビデを蔑み、王としての体面を失った姿だと非難しました。

 

そんなミカルに向かって、ダビデは、「神様があなたの父よりも、その全家よりも、むしろ私を選ばれた」と直接的に断言し、神様の前で踊り喜ぶことがどれほど卑しく見えたとしても、自分は神様に選ばれた王として踊り続けると宣言します。

 

サムエル記はミカルのことを、「ダビデの妻」ではなく、「サウルの娘」と記しています。 つまり、ミカルは、イスラエルの王ダビデの妻としてではなく、サウル家の最後の人として強制的にダビデの町に連れて来られたという考えを捨てられず、主にあるイスラエルの繁栄の喜びに共にあずかることができなかったということです。 彼女は、この不和によりダビデに遠ざけられ、死ぬまで子がありませんでした。 不幸は選択の結果なのです。

 

自分が、神様が与えてくださっている恵みをダビデのように表現するのではなく、ミカルのように苦々しい思いを持ち続けてしまっていないか、心の中を探りたいと思います。 何よりも神様による喜びを回復し、人目を気にせず神様だけを仰ぎ見て、喜びを表現できるようになりたいと願います。 また、神様が与えてくださる恵みの喜びを周りの人たちとも分かち合い、神様の恵みの喜びをもって人々を導ける者となれますように。 御霊の照らしと導きがありますように。