今日の箇所(詩篇 38:1-22)は、人生を揺るがすような苦難の病の床にあっても、不平不満を吐き出すのではなく、自分自身を省み、罪を告白し、神様の救いを祈り求める態度が重要であることを語っています。

 

ダビデは、大きな傷を伴う深刻な病に倒れていました。 傷が悪臭を放つほど腐り、体中が痛んで完全なところがないほど、病によって苦しんでいたのです。 しかも、それは長期に渡っていたようです。

 

ところが、そんな状況に対して、ダビデは不平不満を口にするのではなく、また、神様を恨むのでもなく、むしろ自分の罪のゆえに神様からの懲らしめを受けていると捉えました。 そして、自分の咎を告白し、悲しみの中、一日中、呻いていたのです。

 

咎と死の恐怖が彼の頭を超えるほどまで嵩を増し、彼の心を押しつぶし、耐え難い不安に苛まれていたのです。 すべてを投げ出してしまいたくなるような状況の中で、ダビデは、唯一の望みである神様に、自分の思いをすべて、ありのまま注ぎ出します。 どのような状況にあろうとも、神様は自分の嘆きと呻きに耳を傾けてくださると信頼していたのです。

 

ダビデの長患いは、徐々に周りの人たちを離れさせました。 弱っている時こそ、自分を愛し、ケアして欲しいと願う愛する者たち、友、家族、親戚までもが彼から遠ざかりました。 彼に害を加えようとする人々は、この時とばかりに、悪口を浴びせ、陰謀を企みます。

 

ダビデは、非難とそしりの声に耳を閉ざし、不平不満を言いたくなる口をも閉ざして、ただ主に向かってのみ口を開き、祈ります。 苦難の中で倒れそうな自分の危うい状況を告げ、悲しみの中で自分の咎を打ち明けます。 そして、悪をもって善に報いようとする数多くの敵に囲まれている自分を見捨てず、急いで救ってくださいとあくまでも神様を信頼し、神様に訴えます。

 

すべての人から見捨てられたような極限の状況でも、真の信仰者は希望を捨てません。 そして、神様の憐れみと愛を信じて、神様にすがります。 どんな苦難や逆境の中でも、神様を信じて待ち望むことが信仰なのです。

 

人生を揺るがすような苦しみの中でも、神様の御前に立って自分自身を省みる場が与えられていることに感謝します。 人から見捨てられ、この世に希望が無くなっても、完全な救いであられる神様にすがり、神様の臨在の中、切実な心でひざまずき、神様の恵みと救いを待ち望む者となれますように。 御霊の照らしと導きがありますように。