今日の箇所(創世記 31:17-35)には、神様は、私たちには見えないところでも、ご自分の民である私たちのことを守ってくださっているということが示されています。

 

ヤコブは、ラバンが羊の毛の刈りに出ていた時、家族を連れてラバンの家から旅立ちました。 羊の毛を刈る仕事は、他の地域に移動して行われる場合があり、場合によっては、戻って来るまで数か月もかかることがあったので、時間を稼ぐチャンスだと思ったのでしょう。

 

ところが、ヤコブたちが旅立って3日経ってからそのことに気付いたラバンは、7日の道のりを追って来ます。 彼の執着心の強さが表れています。 彼はヤコブを滅ぼし、娘たちと財産を取り戻す気満々だったことでしょう。

 

しかし、神様がラバンの思いを挫きます。 神様がラバンの夢に現れ、ヤコブに害を与えてはならないと告げられたのです。 神様は、ヤコブ自身は知りませんでしたが、このように細やかにヤコブを守ってくださっていたのです。

 

神様のご介入にょり、ラバンはヤコブに害を加えることができず、ただヤコブを責めることしかできませんでした。 ラバンは、テラフィムを「私の神々」と呼び、ヤコブがそれを盗んだと責めます。 テラフィムとは、古代人たちが守り神として崇拝していた偶像で、テラフィムを所有する者は財産相続の権利を持つとされていました。

 

ヤコブの堂々とした許可を受けて、ラバンはテラフィムを取り戻すために、天幕を隅々まで調べました。 その姿からは富に対する貪欲な執着が見て取れます。

 

一方、聖書は、テラフィムがらくだの鞍の下に敷かれている様子を描写しています。 それどころか、「女の常のことがある」、すなわち一般的に汚れているとされていた生理中の女性の下敷きになっていたのです。 ここには、偶像の無力さが皮肉さを交えて描かれているわけです。 私たちには見えていないところでも守ってくださっている生ける神様に対比させるかのようにです。

 

私たちが信じる唯一まことの神様は、天地を造られ、すべてを統治しておられる生ける神様です。 このような素晴らしい方を自分の父として持つことを許されている私たちが、偶像に拠り頼むなど、どれほど愚かなことであるか、しっかりと肝に銘じるべきです。

 

いつも追われているように感じる人生の中にあっても、神様の御手にしっかりと守られていることを片時も忘れることがありませんように。 いつでもどこでも共に居てくださるという約束を握り締め、誰の前でも、どんな状況でも、堂々と正直でいられますように。 神様だけが唯一の助けであることが、私の人生を通してはっきりと現れますように。 御霊の照らしと導きがありますように。