今日の箇所(創世記 28:1-9)には、神の民はますます祝福の道へと導かれ、そうでない者は徐々に祝福の道から遠ざかることが示されています。

 

長子の祝福を受ける過程においては過ちがありましたが、ヤコブは約束の道を進んで行きます。 イサクはヤコブをパダン・アダムに送り出す時、「カナンの娘たちの中から妻を迎えてはならない。…母の兄ラバンの娘たちの中から妻を迎えなさい」と命じます。 これは、アブラハムが、イサクの妻を選びために、しもべに命じた内容と同じです。 これは、アブラハムに与えられた約束が、イサク、ヤコブへと受け継がれていくことを示しています。

 

また、イサクはヤコブに、全能の神が祝福し、多くの子を与え、「今、寄留しているこの地を継がせてくださるように」と祝福します。 自分から祝福を奪い取ったとはいえ、ヤコブもまた、イサクにとってはかわいい息子です。 今、遠くに旅立とうとしている息子を案じる父親の心が垣間見えます。

 

ヤコブも本心では行きたくはなかったかも知れませんが、神様の摂理により、ますます祝福の道へと導かれます。 信仰によって神様の約束の道を歩む時、全能の神様が共に居られ、その約束が成就されるよう助け、導いてくださるのです。

 

一方で、エサウは、ますます自分の思いを優先させ、祝福の道から遠ざかって行きます。 ヤコブがパダン・アラムに旅立った後、エサウはイシュマエルの娘を妻に迎えます。 自分がカナン人の娘を妻にしたことを、父イサクもまた気に入っていないことを知ったからです。

 

しかし、この動きは、父の愛や神様の祝福を自分の力で勝ち取ろうとする孤児の行いです。 「イシュマエルのところに行く」というエサウが選んだ道は、神様の祝福を受け継ぐ者としての道からは、ますますかけ離れて行く道でした。

 

神の民とされ、神様の臨在と導きの恩恵を受けられるというのは、これほどまでに違いが出るのです。 今や御子イエス・キリストの贖いのみわざは成し遂げられ、誰でも信仰によって神の民となれるという祝福が与えられています。 多くの人が、この祝福を知っても、なかなか信じ受け入れません。 しかし、受け入れて神の民となるか、神の民でないまま生きるかということは、年月とともに大きな違いが出て来ます。 神の子どもとされ、神の民の一員として数えられるということは、他の何ものにも代えられないほど、貴重で大切なことなのです。

 

目に見えない神様よりも、目に見えるものだけを追い求めがちな愚かな自分であることを認め、そもそも自分はエサウと同じであることを告白します。 そんな私の霊的無知にもかかわらず、神様の計画の中で私の人生を導いてくださる恵みと愛に感謝します。 肉の欲ではなく、主のみこころを追い求めて、信仰の歩みを続けて行くことができますように。 御霊の照らしと導きがありますように。