今日の箇所(第一コリント 11:17-26)には、聖餐の目的は、主イエスの死の意味を心に刻み、共同体が一つとなることであることが示されています。

 

神様は、クリスチャンが主にあって一つになることを願っておられます。 パウロは、コリント教会の信徒たちの集まりが、「害になっている」と指摘します。 彼らの間に分裂があったからです。

 

彼らの分裂の原因は、「主の晩餐」と関連していました。 当時は、食事と聖餐を同時に行い、食事を持ち寄って食べていました。 比較的時間が自由になる金持ちたちは早く来て、我先にとたくさん食べていました。 一方で、長時間働かなければならなかった貧しい人たちは、遅れて来ざるを得なかったため、十分には食べられませんでした。

 

酔うほど飲み食いして、貧しい人たちに配慮しない金持ちたちは、「主の晩餐」ではなく、単に「自分の食事」をしていただけでした。 パウロは、それならば、自分の家で飲み食いすれば良いと言い、そのような態度は「神の教会を軽んじている」行為であると責めます。 自分の立場と違う人に対して配慮をしないなら、神の教会とは言えません。

 

そもそも聖餐とは、私たちの違いをかき消すほどの大きな恵みを象徴したものです。 聖餐は、主イエスがユダヤ人の宗教指導者たちに渡される夜、弟子たちと最後の食事をされたことが、その起源です。 その日は、過越の前日でした。 イエスさまと弟子たちは過越の食事を共にすることを通して、昔、神様がイスラエルの民を救ってくださったことを憶え、感謝したことでしょう。

 

そして、イエスさまは、ご自分が救いを完成される方であることを示すために、弟子たちに自らのからだを象徴するパンを裂き、自らの血を象徴する杯をお与えになりました。 そして、終わりの日にご自分が完成される霊的な出エジプト(救いの完成)を、聖餐を持つたびに待ち望むよう命じられます。

 

私たちは、主が再び来られる日まで、聖餐にあずかりながら、イエスさまの死の意味を心に刻み、世に告げ知らせなければなりません。 しかし、その方法とは、まさに共に聖餐にあずかる霊的共同体が主にあって一つになっている姿を見せることによってなのです。 主イエスの死の意味を心に刻みつつ、共同体が一つになることこそ、聖餐の目的なのです。

 

ただ儀式のように聖餐にあずかっていた自分を省みます。 まず私の心の内で、主の救いの恵みに対する感謝を回復させてください。 聖餐にあずかるたびに、イエスさまの十字架の愛を胸に刻むことができますように。 経済的な困難に苦しむ兄弟姉妹、弱さを憶える兄弟姉妹を顧みる寛容な心を、私自身に、また教会共同体に、主が与えてくださいますように。 御霊の照らしと導きがありますように。