今日から旧約聖書の預言者マラキの書に入ります。 今日の箇所(マラキ1:1-5)には、「選び」と「契約」に現れている神様の愛を疑うべきではないということが示されています。

 

神様の愛は、「選び」と「契約」に現れています。 イスラエルは、長い捕囚生活の後、祖国に戻って来ました。 しかし、エルサレムの神殿と城壁は再建されたものの、彼らは未だ独立を勝ち取ることはできず、ペルシアの属国に過ぎませんでした。 彼らが期待した「光の時代」は来ず、経済的、社会的苦しみは続いたのです。

 

そのような状況が長引く中で、イスラエルの民の心には「疑い」が芽生えます。 あなたたちを愛しているという神様のことばに対して、彼らは「どのように、あなたはわたしたちを愛してくださったのですか」と神様に問いかけます。

 

状況や環境を通して、私たちの心の内に疑いの心を芽生えさせるのは、サタンの常套手段です。 私たちは、この疑いの中に留まっていてはなりません。 そうでないと、この疑いが私たちの信仰を食い尽くしてしまうでしょう。

 

神様は、ご自分の愛の証明として、「選び」と「契約」を示してくださいます。 神様は、エサウよりも特に優れたところのないヤコブ、すなわちイスラエルを選んで愛されました。 ヤコブとエサウは一人の母親から生まれた双子でしたが、神様はヤコブを選ばれたのです。

 

一方で、エサウのことは「憎んだ」とありますが、だからと言って、神様がエサウを最初から見捨てられたわけではありませんでした。 神様は、エサウに与えられた領域を長い間守られました。 ところが、エサウの子孫であるエドムは、イスラエルがバビロンに捕囚として連れて行かれる時、イスラエルから略奪するなどの蛮行を働きました。 そこで、神様はエドムを荒れ果てた地とし、彼らが国を再建しようとしても、また壊すと宣言されます。 兄弟イスラエルを裏切り、神様の怒りを買ったエドムは、歴史の中から完全に消え去ることになります。

 

反対に、イスラエルもまた、神様に背を向け、反逆の歴史を紡ぎ、捕囚という神様からの厳しい懲らしめを受けますが、エルサレムは再建され、イスラエル民族は存続しているのです。 神様は「イスラエルの存続」と「エドムの消滅」を通して、ご自分の主権的な選びと愛を、すべての国々に告げ知らせておられるのです。 私たちは、聖書にも、歴史にも刻まれているご自分の民に対する神様の愛を、決して疑うべきではありません。

 

神様のことを、父なる神様として呼び求めることができることが、どれほどの幸いであるかということをあらためて思わされました。 苦しい現実のために、神様の愛を疑ってしまう自分の弱さを省みます。 何の資格もない私を選び、永遠に愛する子としてくださった神様に感謝し、いつも御名を賛美することができますように。 御霊の照らしと導きがありますように。