今日の箇所(ルカ 20:1-8)には、霊的に無知な人は、言い逃れをし、滅亡へと向かうということが示されています。

 

イエスさまは、神の御子としての権威によって働いておられましたが、祭司長や律法学者、長老たちは、それを認めません。 それで、イエスさまに「何の権威によって」福音を教えているのかと問い正します。 彼らは、イエスさまが公的な権威もなく教えていることを不満に思っていたのです。

 

イエスさまは、彼らに答える代わりに「ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、それとも人から出たのですか」と尋ねられます。 これは非常に練られた鋭い良い質問で、当時ヨハネが行ったすべての働きと教えに対する評価を問うものでした。 ヨハネはイエスさまを証した人なので、彼に対する評価はイエスさまに対する評価に繋がるわけです。

 

宗教指導者たちは、イエスさまの質問を受けて、考え込みます。 もしヨハネのバプテスマは天からだと言えば、「どうしてヨハネを信じなかったのか」と言われてしまいます。 ヨハネがイエスをキリストだと証していたので、ヨハネを認めれば、イエスを認めざるを得なくなります。

 

逆に、もしヨハネのバプテスマが人からだと言えば、民がヨハネを預言者として認めていたので、これもまた大きな問題を引き起こすことになります。

 

それで、彼らは「知りません」と答えます。 彼らは危機を避けるためにこう言ったのですが、それは無知の現れでした。 彼らは、バプテスマのヨハネが、旧約聖書で証されている「荒野で叫ぶ者の声」であることも、彼の「後に来る方」がイエスさまであることも悟れませんでした。 彼らは宗教的な枠に囚われて、イエスさまを通して成就される神のみこころを悟ることができなかったのです。

 

頑なな者は、真理の言葉を受け入れることができません。 霊的な無知な人は、言い逃れをし、滅亡へと向かいます。 しかし、聖霊の光に照らされている者には、霊的改革が起こり、自分の枠が砕かれ、救いの道が開かれるのです。

 

自分の思いに囚われるなら、生ける主を経験することができず、哀れな人生にならざるを得ないことを肝に銘じます。 人から受け入れられることよりも、主に受け入れられることを優先したいと思います。 たとえ人から敵対視されたとしても、イエスさまのように真理を語り、福音を伝え続けることができる勇気と力を、主が与えてくださいますように。 御霊の照らしと導きがありますように。