今日の箇所(ルカ 13:22-35)には、救いの門は狭く、救いは神様の主権にかかっているということが示されています。

 

「救われる人は少ないのですか?」と尋ねられると、イエスさまは「狭い門から入るよう努めなさい」と答えられます。 救いの門は、多くの人が入ろうとしても入れないというのです。

 

これは、救いの門をくぐるのに、多くの資格が要るということではありません。 しかし、単にイエスさまと交わり、教えを受けたからといって、救われるわけではないということです。 イエスさまを自分の人生の主として心から受け入れ、罪に背を向けてみことば通りに歩む者が救われるのです。

 

主人が戸を閉めたなら、たとえ後で叩いても開けてもらえないように、救いの戸はひとたび閉ざされたら、二度と開きません。 だから、まだ開いているうちに入る必要があるのです。

 

「アブラハムやイサクやヤコブ、またすべての預言者」、つまりユダヤ人でも神のみことばに従った人々は神の御国にいますが、そうでない人は、たとえ選びの民ユダヤ人であったとしても、外に放り出されます。 せっかくの機会を棒に振った彼らは、泣いて歯ぎしりすることになるのです。

 

そして、後にいる者が先になります。 つまり異邦人たちが神の御国に次々と入るようになるのです。 今、まさにこれが起こっています。 ヨーロッパ、アメリカに向かった救いのうねりは、今、アフリカやアジアへと流れています。

 

先に神の民として特別な立場を謳歌していたユダヤ人は後になります。 神の都であったはずのエルサレムも荒廃の道を辿ります。

 

あるパリサイ人たちがイエスさまに、ガリラヤの領主ヘロデが殺そうとしているから、そこから立ち去るようにと伝えます。 すると、イエスさまは、ヘロデのことを「狐」と呼び、ご自分は「今日と明日」働きを行い続け、「三日目に」働きを完了すると言われます。 これは、ご自分の死と復活を暗示しておられるわけです。

 

イエスさまは、武器をもって悪と戦われませんでした。 むしろ、黙々と神様のご計画に従うことにより、悪と戦われたのです。 イエスさまが十字架で死なれたのは、ヘロデによってではなく、ご自身の意志によってでもなく、ただ神様のご計画に従われたからでした。 従順こそが、私たち神の民が悪に対抗する術なのです。

 

イエスさまはエルサレムに向かって嘆かれます。 エルサレムは、神様のみこころに従うことを拒み、自分たちの目に正しいことを追求するあまり、預言者を殺し、イエスさまを殺し、使徒たちを殺します。 そんな神のみこころに背いたエルサレムは、たとえ「神の都」という看板を背負っていても、荒廃し、滅びるのです。

 

救いは神様の主権にかかっており、救いの門は狭いのです。 大切なのは、神様のみこころに従うことです。

 

先の者が後になるというみことばの前に、心の襟を正します。 主がいつでも私たちをその翼の陰に抱こうとしてくださっていることを憶えます。 たとえ苦難に遭おうとも、信仰の歩みを諦めることなく、自分の思いを脇に置き、敢えて狭い門を選択して行くことができるよう、主が助けてくださいますように。 みこころに従うことこそが、悪に対抗する術であることを堅く肝に銘じて…。 御霊の照らしと導きがありますように。