今日で長かったヨブ記が終わります。 最後の箇所(ヨブ 42:7-19)には、神様は、必ずや回復の恵みを与えてくださる、信頼できる方であることが示されています。

 

ヨブとの対話により、ヨブが心からの悔い改めへと導かれたのご覧になった神様は、次にヨブの友人たちに対して怒りを燃やされます。 それは、彼らが「確かなことを語らなかった」からです。 

 

彼らは、神様についての真理を語りませんでした。 彼らの論理によれば、ヨブの苦難は彼自身の罪の結果でした。 彼らは自分たちの考え方を正当化するのに躍起になり、ヨブの現実に目を留めようとせず、ひたすら教理にしがみつこうとしました。 神様を自分たちの理解できる範囲に閉じ込めようとしたのです。

 

しかし、神様はヨブのことを「わたしのしもべ」と4回も呼ばれます。 これは、ヨブ記の冒頭部分呼ばれた回数(1:8,2:3)の倍です。 たとえヨブがどれほどの苦難や試練が臨んでいようとも、またたとえヨブが苦しみのあまり、神様を見失い、反抗的な態度を取ったとしても、ヨブは神様にとって大切なしもべでした。

 

神様がここまでヨブを認められた理由は、理解できない苦難の現実の中でも、問題解決の「唯一の可能性」である神様から目を離さず、最後まで神様に向かって語り、嘆き続けたからです。 神様を最後まで信頼する者は、決して恥を見ることはないのです。

 

そして、神様によってヨブは回復させられます。 ヨブの回復には、単なる良い結末以上のメッセージがあります。 第一に、とりなしの祈り手となる人生の素晴らしさです。 ヨブは、自分を苦しめた友人たちに恨みを持ち続けることなく赦し、神様がおっしゃった通りに友人たちのためにとりなしの祈りを捧げます。 すると、神様はヨブを苦境から回復させ、二倍の祝福を与えられます。

 

ここで注意すべきは、ヨブが友人たちを赦し、彼らのために祈ったのは、自分の健康や状況が回復させられる前であったということです。 私たちは、今、自分がどのような状況にいようとも、とりなしの祈り手になるよう、召されているのです。

 

第二に、物質的な回復に先立って、人間関係の回復が臨んだということです。 兄弟姉妹や知人たちが彼の所に来て慰めたことは、神のしもべとしてのヨブの名誉が回復させられたことと同時に、人間関係も回復したことを示しています。 神様との関係が回復し、人間関係が回復し、その結果、物質的な回復が臨むのです。

 

第三に、世の基準ではなく、神の基準に立って生きるようになったことです。 ヨブは、息子だけでなく、娘にも同じように相続地を分け与えました。 これは、当時の世界では考えられないことであり、ある意味、画期的でした。 しかし、彼は、人間はすべて、神様の御前にちりに過ぎず、同等であることを心の底から悟っていました。 だから、「法則」とか「目的」に縛られず、神様にある「愛」と「憐れみ」を追求することができたのです。 神様が私たちしもべに願っておられるのは、このような生き方なのです。

 

ヨブの悔い改めととりなしの祈りを聞かれ、彼の名誉と人間関係、そして日常を回復させてくださった神様をほめたたえます! 人生の夜が明けないことを嘆くのを止めて、今すぐ立ち上がりたいと思います。 主が私の目から必ずや涙を拭い去ってくださることを確信しつつ、神様だけを見上げ、希望をもって歩みたいと思います。 御霊の照らしと導きがありますように。