今日の箇所(ヨブ 34:21-37)には、神様はすべてをご存知なので、たとえ沈黙が続こうが神様を信頼し続けるべきであるということが示されています。

 

エリフは、神様の正義について語りながら、神様の全知を強調します。 神様の御前において、悪人たちはどこにも隠れることはできません。 神様は、裁きのために長々と調査する必要はありません。 それは、すべてをその御目で見て来られたからです。 そして、すべての人が見ている所で、堂々と裁きを行われます。 その裁きが正当で正しいからです。 この正しい裁きこそが、弱い者や苦しむ者たちの叫びへの応答となるのです。

 

しかし、神様の裁きは、神様の時に従って行われます。 それゆえ、時には神様の沈黙が長く続き、あたかも御顔を隠されているかのように感じられることもあります。 これは、神様が居られないのではなく、神様が忍耐し、ご自分の時を待っておられるに過ぎません。 人間には、単にその事実が見えないのです。

 

エリフは、ヨブの抱えていた問題は、まさにこの点であると主張します。 自分がすべてを知らないこと、自分が理解し切れていないことを棚に上げ、神様を責めているヨブの態度を問題にしているわけです。

 

人間は、自分の判断こそが正しいとすぐに考えてしまいがちです。 他人から非難されたり、批判されたりすればするほど、自分の正しさを夢中になって主張しがちです。 誰もへりくだって神様の御前に出て、素直に自分の罪を認め、自分が理解できていないことを教えてくださるよう、神様に求めることはしません。 むしろ、自分の正しさを証明したくて言葉数が多くなり、誇張や偽りが増え、さらに罪や背きを加えてしまうのです。

 

エリフは、ヨブもそのような愚かな姿を晒してしまっていると言っているのです。 そして、真に「良識のある人」や「知恵のある人」が見れば、彼のその姿に「知恵」や「聡明さ」がないことを指摘しただろうと付け加えます。 つまり、ヨブに客観的に自分自身を見つめてみるよう促しているわけです。

 

そして、ヨブがさらに試みを受け、神様の御前における真のへりくだりへと導かれるよう望みます。 エリフの言葉は、友人たちの言葉と同様、ヨブを責め立てているように聞こえますが、実際には、神様と同様、ヨブの真の悔い改めとへりくだり、さらにはヨブの回復を心から願っているものなのです。

 

ヨブに必要だったこと、また私たちに必要なのは、苦難の真っ只中で、自分の運命を呪ったり、自分の正しさを主張したりせず、神様の正しさと愛を信頼し、神様の時が来て、正しい裁きが行われる日をひたすら黙って待ち望むことなのです。

 

エリフの言葉を通して、自分もまた、ヨブと同様、自分の正しさを証明したくて、言葉数が多くなり、かえって罪を加えてしまいがちであることを認めます。 自分自身の悲惨な状況に目が行きがちな苦難の時に、神様に目を向け、自分の罪や不理解、弱さや不完全さを認めるのは、極めて難しいこと、基本的に生まれながらの人間にはできないことであることを憶えます。 だからこそ、主イエスが贖いのみわざを成し遂げ、御霊を通して私たちの内に住んでくださることを通して、私たちが正しいことをする内なる力となってくださっていることを憶えます。 神様が沈黙されているでも、内なる主に頼って、神様の愛と正しさを信頼し続けることができますように。 黙って神様の時を待ち望むことができますように。 御霊の照らしと導きがありますように。