今日の箇所(出エジプト 29:1-9)には、神様の働きを担う者は、聖別されることが必要であることが示されています。

 

29章は祭司の任職式の手順について記されています。 任職式には、まず捧げ物を用意する必要があります。 若い雄牛一頭と傷のない雄羊二頭です。 雄牛は罪のきよめの捧げ物、雄羊のうち一頭は全焼の捧げ物、もう一頭は任職の雄羊として用いられます。 また、種なしパンと油を混ぜた種なしの輪型パン、油を塗った種なしの薄焼きパンは、一部を神様にお捧げし、残りは任職の雄羊と共に、アロンとその子らが食べます。

 

この過程は、おもに儀礼的なきよめを示しています。 神様の御前に出るためには、まず神様との間にある障壁である罪が取り扱われなければなりません。 いけにえが罪の代価として捧げられ、また神様と共に取る食事となることを通して、関係が回復させられることが、まず何よりも重要なのです。

 

イエスさまは、究極的ないけにえとなってくださいました。 完全なご自分を罪の代価として捧げ、神様との関係を永久に回復させてくださったのです。 今日、神様の働きを担う者は、イエス・キリストの贖いを、信仰によって適用されていることが、まず何よりも重要です。

 

そして、祭司は会見の天幕の入口で、水で洗われます。 これから後、祭司たちは、働きを始める際には必ず手と足を洗い、水を浴びる必要がありました。 こちらの過程は、おもに心のきよめを示しています。 神様にお仕えするためには、祭司自身が自分の身と心を意識的にきよめることも必要不可欠です。 つまり、この過程は、祭司自身の献身とコミットメントを表しているわけです。

 

罪ある私たちは、究極的に自分自身をきよめることはできません。 だからこそ、イエスさまが罪の代価となって、代わりに罪をきよめてくださる必要があったのです。 しかし、だからといって、私たちが罪に甘んじていて良いわけではありません。 自分自身でも、意識的に罪から離れようという献身とコミットメントは必要です。 きよめ・聖別は、神様の恵みのみわざと私たち自身の心の献身によって、成し遂げられて行くのです。

 

主に仕えて行くためには、聖別されることが重要であることに、あらためて目が開かれました。 私の中から汚れたものを追い出し、神様の聖さを現わすことができるようにと、主イエスが十字架についてくださったということを憶えたいと思います。 この真理の帯をしっかりと締め、聖霊の油注ぎを得ながら、心の献身をもって、この時代の祭司としての務めをしっかりと担って行くことができますように。 御霊の照らしと導きがありますように。