今日の箇所(マタイ 16:1-12)には、私たちはどのような人の教えに耳を傾けるべきかということが示されています。

 

パリサイ人とサドカイ人が結託して、イエスを試そうと近づいて来ます。 当時、モーセ五書だけを認め、口伝律法を否定し、御使いの存在や復活を信じていなかったサドカイ人と、モーセ五書と口伝律法の両方を重んじ、御使いの存在も復活も信じていたパリサイ人は、互いに反目し合っていました。 にもかかわらず、イエスさまを拒むことでは一致し、共に協力してイエスを陥れようとしたのです。

 

彼らは、イエスを試すために、天からのしるしを求めました。 既に多くの奇跡を目にしておきながら、このようなしるしを求めるということは、彼らが欲していたのは、自分たちを潤してくれる奇跡か、あるいはイエスを陥れるための口実だったということです。

 

イエスさまは、ご自分が行われるみわざが終末の救いのみわざであることを教え、彼らに示されるのはヨナのしるしだけだとおっしゃいます。 これはもちろん、ご自身の死と復活のことです。 人の目には愚かに見える十字架が、イエスがメシアであることを示す何よりも確かなしるしなのです。

 

彼らから離れた後、イエスさまは弟子たちに、パリサイ人とサドカイ人のパン種に用心するよう警告されます。 これはもちろん、食べるパンについての教えではなく、この世の栄光と繁栄を求め、直接メシアに会っても悟ることのできないパリサイ人やサドカイ人の教える偽りの教えに惑わされないようにしなさいという意味です。

 

もしパンの問題(この世の栄光や繁栄)に執着するなら、霊的な目が閉じられてしまいます。 物質的な必要が満たされ、安定した人生を送ることばかりを追い求めるなら、十字架は愚かなものに見えるようになるでしょう。 

 

私たちは、教えている人がいったい何を最も大切にしているのかということをきちんと見極めた上で、聞き従う必要があります。 主イエスのように自分を犠牲にしてでも神様のみこころに従おうとする人こそ、神様に立てられた指導者なのです。

 

キリストの十字架の死と復活の価値を悟らず、別のしるしばかり求めることは、主を試みる悪しき態度であると示されました。 十字架の恵みと復活の力を味わうことを妨げ、世の基準と風潮に従わせようとするパン種(教え)を見分け、警戒することができますように。 自己犠牲を厭わず神様のみこころを行おうとする、神様に立てられた指導者に聞き従い、積極的に支援し、共に神の御国を建て上げて行くことができますように。 御霊の照らしと導きがありますように。