今日の箇所(ローマ 11:1−10)には、救いの恵みを得る者は、神様の恵みに満ちた選びによって残された者であることが示されています。

 

神様は、ご自分の民のことを途中で投げ出したりはせず、最後まで責任を負ってくださいます。 イスラエルは、みことばに従って来られたイエスを拒みました。 しかし、だからといって、神様がイスラエルをお見捨てになったわけではありません。

 

パウロはその2つの証拠を挙げています。 一つ目は、パウロ自身です。 彼はベニヤミン族出身のイスラエル人ですが、キリストを信じ、救いにあずかっていました。 二つ目は、エリヤの時代にバアルに膝をかがめなかった者たちです。 エリヤは、神様に仕える者は自分しかいないと神様に対して嘆きましたが、神様はバアルに膝をかがめない7千人の人々を残しておられました。

 

同様に、イスラエルの中にも神様が恵みの選びによって残しておられる者が、いつの時代にも居ます。 私たちの周りにも、神様が恵みの選びによって残しておられる者が居ます。 今日も神様は、私たちの思いもよらない所に、ご自分の民を備えておられるのです。

 

イスラエルの民の大半がキリストを拒んだのは、自分たちの既得権に執着したからでした。 神様はイスラエルに対して「律法」をお授けになりました。 これは、他の民にはない特権でした。 ところが、イスラエルは、その律法を守ることによって神の義を得ようとし、それに失敗したのです。

 

律法を自力で守ることのできない私たち人間のために、律法の完成であるイエスさまが来てくださり、贖いのみわざを成し遂げてくださいました。 にもかかわらず、イスラエルの民は律法を持っているという既得権に執着し、イエスさまを拒みました。

 

彼らがイエスさまを信じることによって与えられる救いを見ることができなかったのは、彼らの心と目と耳が鈍くなっていたからです。 彼らは、神の民としての異邦人を排除した排他的な食卓の交わりといった特権を固く握りしめ、神様の寛大な恵みを理解しようとしなかったのです。 律法が指し示しているイエス・キリストを受け入れなければ、真理を悟ることはできず、律法という重荷によって押し潰されて生きるしかないのです。

 

自分のような何の取り柄もない者が、神様の選びによって、救いの恵みを受けているという不思議をあらためて憶えます。 パウロのように、自分の救いが神様の全能の力と慈しみを表す証拠であると捉え、たとえ信仰の不毛の地のように思えるこの日本においても、神様が必ず自分と同じような残りの者を備えてくださっていると期待して、今日も隣人に福音を告げ知らせ続けたいと思います。 神様の大いなる力と寛大な恵みを信頼しつつ…。 御霊の照らしと導きがありますように。