今日の箇所(申命記134-46)には、不信仰と頑なさを持ったままでは、何をしても敗北することが示されています。

 

イスラエルの民は、偵察隊の報告を聞いて、大声を上げて泣き、神様に対して不平不満を口にします。 神様のみことばに耳を傾けず、何も実行しようとせずに不平を言う彼らに対して、神様の怒りが燃え上ります。

 

神様は、彼らのことを「悪い世代」と評され、彼らは約束の地を見ることはないと宣言されます。 結局、信仰の目を持たず、恐れに囚われて、神様に逆らった出エジプト第一世代と、彼らの指導者であったモーセは、不従順の代価として、約束の地に入ることができなくなってしまいます。

 

一方で、信仰によって神様に従い通したカレブとヨシュアだけは、第一世代であっても、約束の地を相続として受け取ります。 それ以外は、当時、まだ善悪をわきまえないような子どもであった第二世代だけが、約束の地に入ることが許されたのです。

 

この決定を告げられた後、神様はイスラエルの民に、向きを変えて荒野に行くように命じられましたが、イスラエルの民は、後になって後悔し、上って行って戦おうとします。 しかし、「時すでに遅し」でした。 神様のご計画は、彼らの不従順によって変えられてしまったからです。

 

真の悔い改めは、自分の罪に対する罰まで黙って受け入れることですが、民の心は相変わらず頑なでした。 後になって後悔し、以前の神様の命令に従ったとしても既に時遅く、それはもはや従順ではなく、不従順なのです。

 

神様は「わたしはあなたがたの内に居ないから、戦ってはならない」と強く警告されましたが、彼らは聞く耳を持たず、武器を持って上って行き、結局アモリ人に大敗し、その後38年間、荒野をさまようことになってしまいます。

 

神様のみこころに反する行動は、頑なな心の表れであり、不従順の代価は滅びです。 純粋な信仰と完全な従順だけが、神様の約束の成就を見ることができるのです。

 

軽率に行動したイスラエルの民の不従順な姿で、自分自身も歩んでしまっていることが多いことを省みます。 カレブのように最後まで従い通せる者へと変えられたいと願います。 みことばに従うかどうかが祝福か呪いを決定することを肝に銘じ、真摯に、誠実に、みことばに従う道を歩んで行きたいと思います。 主が弱い私を励まし、力づけてくださいますように。 御霊の照らしと導きがありますように。