今日の箇所(レビ記2110-24)には、きよさに関する神様の期待と憐れみについて記されています。

 

神様は、頭にそそぎの油を注がれ、聖なる装束を身に着けている大祭司に、一般の祭司たちよりも高い次元のきよさを求められます。 一般の祭司は、近親家族の葬儀には連なることができますが、大祭司は自分の父母が死んでも、聖所から出ることができませんでした。 これは、神様から特別に選ばれ、建てられ、聖所に仕える者とされた大祭司の職務が、家族に対する義務よりも優先していることを示しています。

 

また、大祭司は、処女である女としか結婚できませんでした。 大祭司という役割は、聖所のきよさと直結しています。 だからこそ、あらゆる面で最高のきよさが求められたのです。

 

神様は、ご自分の民とその共同体に対して、ここまできよさを期待しておられるということです。 しかし、一方で、神様は憐れみに満ちた方でもあります。

 

神様は、障がいのある祭司は、神様に近づくことができないと規定されました。 これは一見、差別的に見えますが、そうではありません。 むしろ、これは弱者に対する神様の配慮です。

 

いけにえを屠る祭儀はかなりの重労働を伴うものであり、からだに障がいのある者が果たすには極めて難しい作業でした。 そのような者たちを、神様は祭儀の務めから憐れみをもって外されたのです。 これが差別でないことは、神様が彼らも一緒に聖なるものを食べるように定めておられるという事実からも明らかです。

 

職務に対する厳しい責任だけを求め、肉体的な弱さを配慮しなければ、まったき働きはできません。 奉仕者の状況に心を配り、配慮する愛の中で、きよさはより光を放つのです。 私たちもまた、責務に対する厳しさを忘れることなく、しかしながら、配慮する愛も同時に忘れてはなりません。

 

神の民として、また霊的指導者として、きよさに対する厳しい態度が、神様から求められていることを肝に銘じたいと思います。 どんなことにも溺れず、己を律し、心身をきよく保つ努力を怠ることがないよう、主の守りがありますように。 また同時に、弱者を常に配慮される神様の愛に倣って、弱い人たちに寄り添い、助ける愛を常に実践することができますように。 御霊の照らしと導きがありますように。