今日の箇所(詩篇11941-56)には、みことばは、人生を共に歩んでくださる主からの愛の手紙であることが示されています。

 

詩人は、主の仰せを自分がどれほど愛し、喜んでいるかということを表現しています。 ですから、すべてが「みことばのとおりに」なるようにと願います。

 

みことばを信頼する人は、主の恵みと救いを経験します。 それゆえ、自分をそしる者に対しても、大胆に真理のみことばを語ることができます。 そうして、主のことばの真実さをますます実感して行くのです。 だからこそ、みことばを愛し、喜びます。 そして、このような心が、いつでもみことばを守るという決断に繋がるのです。 みことばを中心にする人生は、この良い循環が自然と起き、ますます主の愛と恵みに満たされるようになります。

 

一方で、主の仰せと諭しを束縛と感じていると、自然とみことばから遠ざかるようになります。 みことばから疎遠になれば、主からもますます遠ざかります。 そうなると、ただひたすら自分自身を頼みとする不安定な人生となります。

 

主がみことばによって引かれたラインを守る者は、険しい人生の道でもつまずくことなく、真の自由を味わうことができるのです。

 

また、主のみことばは、過去に書かれた単なる文字ではなく、今日も生きて働き、私たちを生かす力です。 主が与えてくださった約束のみことばは、世から嘲られ、苦しめられているクリスチャンに希望と慰めを与えます。

 

苦難の中で私たちがすべきことは、約束のみことばを堅く握って、主に向かって「その約束を思い起こしてください」と祈り求めることです。 クリスチャンにとって、苦難はみことばの力を経験する機会なのです。

 

自分のことを「主のしもべ」と言っている詩人は、律法を無視して捨てる悪者を見る時、聖なる怒りに捕らわれるほど、主のことばを愛していました。 主を主人として迎え、主のしもべとして生きているしるしは、主の戒めを守り、それを自分のものとすることです。

 

みことばは、神様から私たちに送られた愛の手紙です。 主を愛さない人にとっては、この手紙は単なるつまらないものに見えるかも知れませんが、主を愛する人は、この手紙から主の深い愛と関心を見出します。 この真理を悟った者は、喜んでみことばを黙想し、みことばに従う人生を歩み、人生という旅の中で、ただみことばから慰めを得、主に向かって歌うのです。

 

イエスさまの弟子として歩む人生は決して簡単なものではありませんが、主のみことばを信頼し、主のいつくしみと救いを信じる時、あらゆる恐れと困難から解放され、自由を得られることが分かりました。 みことばを通して、主が慰めと希望を与えてくださいますように。 主から愛の手紙に記された約束のことばをいつも心に蓄え、心を尽くしてみことばに従う真実な人生の歩みと献身を続けていくことができますように。 御霊の照らしと導きがありますように。