今日の箇所(レビ記1421-32)には、献身の際に神様がご覧になっているのは、捧げ物そのものではなく、捧げる人の心であることが示されています。

 

神様は、貧しい者にも変わることなく愛を注いでおられます。 ツァラアトの患者が貧しくて、規定通りの捧げ物を用意する力がない場合、より安価なものを捧げることが許されました。

 

罪過のためのいけにえは、余裕のある人と同様、一頭の雄の子羊を捧げなければなりませんでしたが、罪のためのいけにえ、全焼のいけにえ、穀物の捧げ物に関しては代用品が認められました。

 

祭司は、罪過のためのいけにえの血を、きよめられる者の右の耳たぶ、右手の親指、右足の親指に塗り、また油も同じように同じ場所に塗りました。 これは、すべての人に共通した罪の赦しを象徴する儀式でした。 この儀式を通して、神様は、貧しい人も裕福な人も変わることなく、ツァラアトから回復した人を受け入れてくださったのです。

 

私たちの罪が贖われるためには、誰でも御子イエス・キリストの血の贖いが必要です。 これは、裕福であろうと貧しかろうと、社会的地位が高かろうと低かろうと、何ら変わりはありません。

 

その上で、神様は貧しい者に手を差し伸べられます。 一般的には、ツァラアトから回復した者は、罪のためのいけにえとして雄の子羊1頭を、全焼のいけにえとして1歳の雌の子羊1頭を捧げました。 しかし、そのような経済力のない人は、代わりに「手に入れることのできたもの」、すなわち山鳩か家鳩のひなで許されたのです。

 

これは、貧しい者に配慮される神様の憐れみを示しているのみならず、神様が本当に求めておられるのは、捧げ物そのものではなく、捧げる人の心であることを示しています。 献身の基準は、神様を愛する心なのです。

 

神様が、私たちの貧しさや弱さ、社会的地位の低さ、仕事の種類などで差別することなく、むしろ憐れみと恵みを施してくださる方であることに感謝します。 どのような状況に追い込まれても、必ずや恵みと憐れみをもって自分に御手を差し伸べてくださる方であることを憶え、主だけを信頼し、感謝をもって力の及ぶ限り惜しむことなく主に捧げることができますように。 主に倣って、差別することなく周りの人たち誰にでも手を差し伸べることができる者へと変えられますように。 御霊の照らしと導きがありますように。