今日の箇所(レビ記111-28)には、旧約の食物規定を通して、神様が何を教えようとされているのかということについて記されています。

 

神様は、イスラエルの民が聖なる人生を送れるようにするために、食べ物まで細かく区別されます。 この箇所には、食べても良い生き物と食べてはならない生き物が区別されています。

 

汚れていて、忌むべきものに分類されたものは食べてはならず、その死体に触ってもなりませんでした。 このような食物規定の目的は、神の民が汚れたものを避けて、きよさを保つことです。

 

今日の私たちは、イエスさまが旧約の食物規定を廃されたので、何でも自由に食べることができます。 しかし、すべてのことが有益であり、徳を高めるとは限りません。 旧約の食物規定は私たちを縛るものではありませんが、神様がご自分の民に、人生の細かい領域まできよさを保つことを願っておられるという点は、今も変わりません。

 

神様はご自分の民にきよさを求めておられます。 そのために、神様はイエスさまにあって汚れからの回復の道を打ち立ててくださったのです。

 

イスラエルの民は、汚れて忌むべきものの死体に触れてもいけませんでした。 死体に触れれば、夕方まで汚れ、死体を動かす時に着ていた衣服はすべて洗わなければなりませんでした。 神様はこのような「隔離」と「きよめの儀式」を通して、汚れた人に回復の機会を与えておられたのです。

 

神様は、ご自分の民が汚れた状態のままにあることを放っては置かれず、きよさを回復し、聖別した民として生きられるように、きよめの道を備えてくださいました。

 

それがイエスさまによる贖いのみわざです。 私たちは、イエスさまの血の洗いをもって、きよめられるのです。 私たちが罪によって汚れた時、正直に自分の罪を告白し、へりくだって悔い改めてイエスさまを仰ぐなら、イエスさまの贖いのみわざのゆえに、すべての罪はきよめられるのです。

 

神様は汚れや罪を心から忌み嫌っておられるということを胸に刻みたいと思います。 人を汚すものは、食べ物ではなく、心の内にある罪であることを憶えます。 食べるにしても飲むにしても、何をするにしても、自分が聖なる神の民とされた者であることを憶えることができますように。 私たちには御子イエス・キリストによる贖いという回復への道が備えられていることを肝に銘じ、自分の罪に気付いた時はいつでも、悔い改めと信仰をもって主に立ち返り、きよめられたいと思います。 御霊の照らしと導きがありますように。