今日の箇所(ガラテヤ5112)には、再び律法の束縛に身を委ねて、神様の恵みから漏れて行かないための対策について記されています。

 

真の自由は、戦って得るものではなく、贈り物として受け取るものです。 キリストが十字架にかかって死んでくださったのは、ご自分を信じる者を律法から解放し、自由にするためでした。

 

ところが、割礼派の人たちは、割礼を始めとする律法の行いを守るようガラテヤの信徒たちに強要し、再び奴隷のくびきを負わせようとしました。 これは、律法の行いによって義と認められようとする行為であり、キリストのみわざを無駄にし、神様の恵みから漏れることを意味します。

 

私たちが受けた救いは、神様が恵みとして与えてくださった無償の贈り物です。 無償の贈り物を受け取っておいて、自分の手柄を主張しようとするのは間違いです。 しかし、私たちはすぐに自分の功績を主張したくなり、律法を守ること(正しいことをすること)によって、自分の価値を上げようとするのです。

 

パウロは、再び、自力に頼って律法の縛りを受けようとしているガラテヤの信徒たちを見て、「今まではよく走っていたのに、なぜ真理に従わないようになったのか…」と言って、嘆いています。 そして、このような自力に頼り、再び律法に縛られることがないように、その対策について述べています。

 

その対策として、まず第一に、召してくださった方を覚え、サタンの声を聞き分けるということです。 真理を正しく知り、真理でないものは断固として拒まなければなりません。 このためには、みことばによく触れ、真理をよく知っておく必要があります。

 

第二に、真理を歪める間違った教えに警戒することです。 わずかなパン種が粉全体を発酵させ、害悪が拡がるのです。 間違った教えは、できるだけ速やかに戒め、排除すべきです。

 

第三に、キリストと一つとなったからだの一器官として、真理について少しも間違った考えを持たないようにすることです。 教会を搔き乱すものには、神様の裁きがあります。 本当に守るべきもの、本当に大切にすべきものは、愛によって働く信仰だけです。 愛と恵みの主であるイエス・キリストの内にあってこそ、真の自由を味わうことができるのです。

 

再び奴隷のくびきに陥ることがないよう、愛と恵みの福音の上に立って、信仰によって生きたいと思います。 サタンの計略に陥ることがないよう、間違った教えに気付く霊的敏感さを養いたいと思います。 そのためにも、よりみことばに親しみ、祈りをもって主と近く歩みたいと思います。 教会がしっかりと真理の上に立ち、偽りの教えに惑わされることがないよう、主の守りがありますように。 御霊の照らしと導きがありますように。