今日の箇所(ヘブル3111)には、神様の御前に忠実に生きる秘訣が記されています。

                            

ヘブル人への手紙の著者は、イエスさまのことを、神のしもべモーセよりも忠実な方であると描写しています。 それは、ヘブル人、すなわちイスラエルの民にとって、モーセより偉大な存在はなかったからです。

 

彼は、イエスさまのことを「使徒」であり、「大祭司」であると言っています。 「使徒」とは、神様が人間に遣わされた人であり、「大祭司」とは、民の過ちと罪を携えて、彼らの代わりに、人間の代表として神の御前に出て行く人です。 イエスさまは、この両方の役割をすべて引き受けてくださったのです。

 

それゆえ、私たちに与えられている最後の、そして最高の恵みであるイエスさまのことを常に考え、神様から与えられた希望による誇りを最後までしっかりと持ち続けなければなりません。 「イエスは主です」と一度限り告白して終わるのではなく、日々の生活の中でこの方に拠り頼む信仰が大切なのです。

 

さまざまな思いで心が揺らぐたびに、イエスさまに対する確信と希望をしっかりと保ち続けるならば、「神の家」、すなわち真の神の民となると約束されています。 私たちに対する神の愛、イエスさまの恵み、聖霊の働きは、いつまでも変わることはありません。 ここにしっかりと目を注ぎ続けるべきなのです。

 

そうすれば、神様の御声を聞く時には、その御声に従うようになります。 イスラエルの民は、心が頑なで、神様に対して不従順でした。 彼らはレフィディムで水がないと言って主を試み、カデシュ・バルネアでカナン偵察隊の報告を聞いて怖れ、神様の命令に背きました。

 

主の御声を聞いたら、逆らったり、心を頑なにしたりしてはなりません。 出エジプト第一世代のイスラエルの民は、神の安息(約束の地)に入る機会が与えられていたのに、不従順な心で神の道を悟らず、結局、荒野で滅びました。 安息に入らせるという神の約束が、彼らとは無関係なものとなってしまったのです。

 

頑なな心と不従順は滅びの道に繋がっています。 常にイエスさまに目を向け、決して目を逸らさず、日常生活において、イエスさまと同じように神様の御声に完全に従う習慣を身に着けなければなりません。 その先に、イエスさまが与えてくださった真の祝福のいのちがあるのです。

 

神様からの最高の恵みであるイエスさまを心の中心、人生の中心に迎えたいと思います。 今日も、信仰と希望と愛の源であるイエスさまのことを深く考え、従う一日となりますように。 父なる神様から委ねられたすべてのことに最後まで忠実であったイエスさまのように、私も神様の御前に忠実なしもべとして、最後まで歩むことができますように。 御霊の照らしと導きがありますように。