今日の箇所(使徒 17115)には、福音の恩恵を受けられる人と受けられない人の違いが示されています。

 

ピリピを出たパウロとシラスは、テサロニケにやって来ます。 そして、この地にはユダヤ人の会堂があったので、いつものように会堂に入って行って、福音を語ります。 彼らの宣教戦略は、その地にユダヤの会堂があればまずそこに入り、ユダヤ人や改心した異邦人に対して、旧約聖書に預言されたメシヤこそがイエスであると告げるという方法でした。

 

テサロニケにおいても、多くのギリシャ人は素直にパウロの語る福音を受け入れ信じます。 ところが、ユダヤ人は彼らを妬んで騒ぎを起こします。 自分たちこそが選びの民であるという選民意識と、自分たちが十字架につけて殺したイエスがメシヤであるということを認めることができなかったのです。 彼らのプライドと頑なな心が、せっかく聞いた福音の恩恵を受けられなくしたのです。

 

彼らはパウロとシラスを捕らえ、処刑しようとします。 その煽りを受けて被害に遭ったのが、パウロ一行の働きを助けて、宿を提供していたヤソンの家の人たちでした。 彼らは人々の前で偽りの罪を着せられ、糾弾された上、保証金を取られました。 真理に反対する人は、実は真理を恐れています。 だから、偽りによって事をねじ曲げようとするのです。 しかし、神様は何が正しく、何が間違いであるかをすべてご存知です。

 

パウロとシラスは、テサロニケにユダヤ人たちの手を逃れて、ベレヤに行きます。 そして、ここでも同じように会堂に入り、みことばを伝えます。 テサロニケの人たちとは異なり、ベレヤの人たちは、熱心にみことばに耳を傾け、聞いたみことばが果たしてその通りか確認するために毎日聖書を調べます。 彼らにとって、真理に対する飢え渇きの方が、プライドよりも重要でした。 福音の恩恵を受けられるのは、ベレヤの人たちのように、素直に正直に福音の真理を受け入れようとする態度を持つ人です。 開かれた心でみことばを受け入れようとする飢え渇いた魂を、神様は必ずや真理で満たし、潤してくださいます。

 

プライドや頑なさがいかに福音の恩恵を受ける際に邪魔なものでしかないかということを憶えます。 谷川の流れを慕い喘ぐ鹿のように、魂の飢え渇きを満たしていただくために、素直に、正直に、生ける神様を慕う者でありたいと思います。 日々、みことばから真理を受け取り、その真理によってますます喜びと平安に満たされますように。 そして、福音の真理を喜んで隣人に分かち合う者となれますように。 御霊の照らしと導きがありますように。