今日の箇所(詩篇 83118)には、もはや救い主なる神様を信じられないような苦境において、なお、神様を信頼して祈る者こそが、神様の大いなる救いと回復の恵みを見ることになるということが示されています。

 

この詩の作者であるアサフがこの詩を書いたのは、敵国の侵略を受け、絶体絶命の危機的状況にあった時でした。 そんな中でも、彼はイスラエルのことを「主の民」、「主のかくまわれる者たち」と呼んでいます。 神様に見捨てられたような状況の中でも、彼は自分たちのアイデンティティーを見失わなかったのです。

 

神様は、ご自分の民、ご自分の子どもたちを決してお見捨てにはなりません。 神の民を攻撃する者は、「主の敵ども」、「主を憎む者ども」なのです。 神の民を憎み、攻撃することは、神様に敵対して、その権威に挑むことです。 それゆえ、神様は必ずやその状況を打ち破り、ご自分の民である私たちを守り、救い出してくださいます。

 

神様の誠実さと力強さに関しては、疑問を差し挟む余地もなく、何も問題はありません。 しかし、問題があるのは、私たちの信仰の方です。 状況にばかり目を向けて、神様の誠実さと力強さを疑い、諦めの気持ちを抱いてしまう私たちの弱さの方が問題なのです。

 

アサフは、そのような絶体絶命の危機的状況にあって、かつて神様がイスラエルの敵を滅ぼしてくださった出来事を思い起こし、神様は今回も必ずや自分たちを救い出してくださるという確信を新たにします。

 

神の民の敵は、神の牧場であるイスラエルの地を自分たちのものにしようと悪だくみます。 悪者は、神の御国を侵略して奪い取るためなら、心を一つにして一致するのです。 しかし、彼らがどれほど束になってかかって来ても、力ある神様の御前では、容易に風に吹き飛ばされる藁のような存在に過ぎません。 彼らに勝機はないのです。

 

アサフは、神様が彼らを叩き、彼らに恥を見せてくださることを祈りつつも、最終的には彼らが主の御名を慕い求め、主が全地の上におられる「いと高き方」であることを知ることを願い求めます。 ここに真の聖徒の姿があります。 たとえ窮地に陥っても、聖徒が最終的に願うことは、敵への復讐や自分自身の保身ではなく、あくまでも神様の御名がほめたたえられ、神様に栄光が帰されることでなければなりません。 それこそが、本当に全知全能なる方を、自分の父として知る者の姿、態度です。

 

たとえ悪が束になってかかって来ても、神様ご自身が選ばれ、導かれる教会と私たち聖徒は、絶対に安全であることを肝に銘じたいと思います。 恐れや不安におののく心を脇に置いて、今まで神様に見せていただいた数々の恵みを数え、神様への信頼を日々新たにしたいと思います。 敵への復讐や自分自身の保身ではなく、神様の栄光が表されることを祈りつつ、神様のご介入を信頼して待ち望みたいと思います。 御霊の照らしと導きがありますように。