今日の箇所(イザヤ書 66:1-14)には、神様が、ご自分の民である私たちに、本当に求めておられるものが何であるかということが示されています。
神様がイスラエルに対して特に忌み嫌われたのは、その偽善的な態度でした。 彼らは、一方では、主の定めに則って宗教儀式を 行いながらも、他方では、罪の道を選んで、自己中心に自分勝手に行動していたのです。 彼らは形でこそ神様を敬っているように見せかけていましたが、実のところ、心は神様から遠く離れていたのです。
神様は、そのようなご自分に喜ばれない道を敢えて選び取る人々に、誘惑や恐怖がもたらされても放っておくことによって、彼らが苦しみの中で自分の罪を悟り、立ち返るように促されます。 それゆえ、懲らしめとしてもたらされた苦しみもまた、恵みなのです。
創造主なる神様が、ご自分の民である私たちに願われることは、心を尽くして神様を愛し、恐れることです。 主は、へりくだる者、心砕かれて悔い改める者、主のことばにおののく者に目を留められるのです。
主の言葉を聞いて、恐れおののく者は、時として、世から憎しみや攻撃を受けることもあります。 しかし、神様は謙遜に悔い改めて主に従う真実な礼拝者を顧み、守ってくださいます。
全能者の守りほど力強いものはありません。 神様は定められた時が来ると、約束されたイスラエルの回復を速やかに成し遂げられます。 陣痛が起こる前に出産する女のように、瞬く間に捕囚地からの帰還とエルサレムの回復が成し遂げられます。 回復したエルサレムには喜びが溢れ、すべての民はまるで母親に抱かれて乳を飲む幼子のように平安に満たされます。 神様が、エルサレムに対し、繁栄を川のように、国々の富を溢れる流れのように与えてくださるからです。
時が来れば、神様は、謙遜に悔い改めて主に従う真実な礼拝者を情熱をもって顧み、惜しみない愛と祝福を注いでくださいます。 たとえ目の前の苦難に終わりがないように思えても、鍛錬の時が終われば、神様は速やかに救い、豊かに報いてくださいます。 神様が求めておられるのは、神様に対する偽りのない愛であり、従順の心の伴った礼拝なのです。
イスラエルの民と同様、自分もまた、形だけの礼拝行為をもって神の民を自任していないか、今一度、自分自身を振り返ってみたいと思います。 自己満足に基づいた歪んだ宗教的熱心さを捨て、ただ主を畏れ、誠実に主に従う謙遜な心を主に捧げることができますように。 それこそが、主が何よりも求めておられるものであることを肝に銘じつつ…。 御霊の照らしと導きがありますように。