今日の箇所(イザヤ書 65:1-16)には、本当に自分たちの未来を託せるのは、唯一のまことの神様だけであるということが示されています。
この箇所には、ご自分の民イスラエルが立ち返るのを待ち焦がれておられる神様と、神様に逆らって良くない道を歩み続けるイスラエルの姿が、対照的に描かれています。
神様に逆らったイスラエルは、自分の思いと欲にしたがって、異邦の神々にいけにえを捧げ、忌むべき行いをして、神様の怒りに触れます。 創造主であり、自分たちの導き手であられる神様に捧げるべき愛を、他の対象に捧げ、自分の欲と偽りの愛に従ったからです。 神様の愛の御手を敢えて振りほどき、背を向けるのは、極めて危険な行為です。
しかし、神様はそれでも人類に対するその大きな愛をお捨てにはなりませんでした。 イスラエルが反逆を繰り返したため、神様は先に、かつては神様を決して呼び求めようとしなかった異邦人に、救いの恵みを授けられたのです。 神様の愛は、素直に神様の愛に応答しようとする者へと向けられるのです。
だからと言って、神様はイスラエルの民を完全にお見捨てになったわけではありません。 神様は裁きの中にも恵みを注ぎ、残りの者を通してみこころを成し遂げて行かれます。 神様は、ヤコブとユダの子孫の内から残りの者を残して、素晴らしい相続地を与えてくださるのです。
しかし、あくまでも神様に背き、ガドとメニに自分たちの未来を託し、神様に喜ばれないことを選んだ者たちは滅びます。 彼らに用意されたものは、飢えと恥、嘆き悲しみと呪いだけです。 未来はすべて主の御手の内にあり、いのちと祝福は神様のみことばに従い、神様に喜ばれることを選ぶ者に与えられるのです。
聖徒は、神様こそが祝福の源であることを憶え、偶像や偽りの神々ではなく、「まことの神」だけに祝福を求めなければなりません。 神様は、ご自身に未来を託す正しいしもべたちに、大きな恵みを注がれます。 たとえどれほどの苦難を経験しようとも、彼らには、そのような先の苦難をすべて忘れ、食べて飲み、喜び歌う日がやって来るのです。
誤った道を歩み、決して神様の御名を呼び求めようとしなかった異邦人である私に、神様がその御顔を向け、救いへと導いてくださった恵みを心から感謝します。 自分がしたことと言えば、神様の呼びかけに「はい」と答えただけであることを憶えたいと思います。 私たちにできること、そしてすべきことは、神様の呼びかけ・神様のみことばに対して、ただ「はい」と返事して従うことであることを肝に銘じたいと思います。 神様は、ご自分に従順をもって愛を捧げようとする者を決して見捨てることなく、愛し、ケアし、大いなる祝福の未来へと導いてくださる方であることを憶えつつ…。 御霊の照らしと導きがありますように。