今日の箇所(イザヤ書 64:1-12)には、罪人である私たちが頼れるのは、最終的には、父なる神様の愛と憐れみしかないことが示されています。
神様は、罪を忌み嫌われます。 神様が怒って人々を滅ぼされるのは、罪のゆえです。 イスラエルが祖国を失い、ひどい苦しみを経験したのは、彼らの罪のためです。 彼らがなかなか苦しい状況から救い出されないのも、彼らの罪のためです。
預言者は、この真理を理解していました。 それゆえ、イスラエルの民に対しても、声を大にして、この真理を告げ知らせて来ました。 しかし、イスラエルの民の大半は、落胆と絶望へと向かうだけで、神様に期待して立ち返ろうとはしませんでした。
ここに人間の限界があります。 真の弱さがあります。 罪の問題の深刻さがあります。 私たち人間は、どれほど願っても、どれほど努めても、自力で罪から自由になることはできません。 罪を犯している自覚を持つことさえ難しく、さらには、たとえ自分の罪を悟ったとしても、なかなか心から悔い改めることができないのです。
預言者はやるかたなく、大昔にシナイ山で点を割いて降臨された栄光の神の臨在を慕い求めます。 ご自分を待ち望む者のために為された素晴らしい救いのみわざを思い返したのです。 そして、神様との間にある契約関係に思いを馳せます。
そして、このイスラエルの民のどうしようもない状況を目にした時、唯一の救いの可能性は、ご自分の民を憐れまれる神様の愛にしかないことに気付きます。 預言者は、ただひたすら神様とイスラエルの間にある契約関係にすがって、神様に救いを願い出ます。 「これ以上沈黙していないで助けてください!」、「天を裂いて降りて来て、救ってください!」と神様の愛にすがります。
このように大胆に救いを願うことができるのは、神様が私たちの父だからです。 たとえ懲らしめを受けていたとしても、神の民は神様との永遠の愛の関係の中にいます。 懲らしめは、あくまでも神様が私たちを子としてくださっているということのしるしであり、聖さと実りあるいのちへと立ち返らせるための一つの愛の表現に過ぎません。 私たちは、決して諦めることなく、父の愛を信頼し、神様にすがる必要があります。 私たちの救いのために、御子イエス・キリストまでも犠牲にされた神様は、必ずやその祈りに応えて、救いの御手を差し伸べてくださいます。
捕囚となったイスラエルの民、完全に破壊され、荒れ果てたエルサレムのような、先の見えない希望の断たれたような状況にあっても、諦めることなく、罪人であるこんな自分でも、子として愛してくださっている父なる神様の愛にすがりたいと思います。 御子イエス・キリストを犠牲にしてまで私と結んでくださった永遠の契約に希望を置きたいと思います。 もう一度、心から神様を喜び、讃美し、礼拝できる日が必ずやって来ることを心に描き、目の前の苦しみに呑み込まれないようにしたいと思います。 神様の変わらぬ約束と永遠の愛を信頼して…。 御霊の照らしと導きがありますように。