今日の箇所(イザヤ書 63:7-19)には、苦難の中にある聖徒が、本当になすべきことが何であるかということが示されています。
現実の苦しみと不条理に目を向け続けていても、無力感と敗北を経験するだけです。 人間の力で苦難から逃れようとせず、神様に目を向け、御前にへりくだって悔い改め、神様の憐れみによる介入と統治を求めなければなりません。
苦難の中にある聖徒がまず為すべきことは、真の悔い改めです。 真の悔い改めは、懲らしめの中でも神様の恵みを憶えて、神様に期待する信仰によって現れます。
「わたしの民」、「偽りのない子たち」と神様に認められ、愛されていたイスラエルが、神様を裏切りました。 神様は、罪によって聖霊を悲しませた人々を打ち、苦難の中に置かれます。 苦しみ悶え、絶望する民に対して、預言者は過去に神様が与えてくださった恵みを思い起こさせます。 エジプトの奴隷生活、出エジプトと荒野での生活、約束の地カナンに入るまでのすべての過程でずっと共に居られ、イスラエルの民を導かれた神様を、彼らが再び捜し求めるようにするためです。
私たちが経験するすべての苦しみの場所に、神様が共に居てくださいます。 諦めや絶望感を脇に置いて、まずは重い口を開いて自分の罪を告白する必要があります。 罪を告白し、過去に示された神様による救いのみわざを憶え、ほめたたえる時、力強い栄光の御腕で私たちを導かれる神様を再び体験することができるのです。
そして、苦難の中にある聖徒がすべき最も重要なことは、神様の御前に出て、祈ることです。
神様が居られないと思えるような状況の中で、預言者は、自分たちの苦しい状況を顧みてくださいと切実に神様に願い求めます。 特に、エルサレム神殿が敵に汚されたことを暗澹たる思いで訴えます。 神様との霊的な交わりの場である主の聖所が踏みつけられたということは、まさにイスラエルの民が神様の統治下から離れていたことを意味するからです。 神の民にとって、父なる神様の守りと統治を受けられないことほど、悲惨で恥ずかしいことはありません。
この状況の中で、預言者は、ひたすら神様の憐れみだけを期待して祈ります。 神様は、私たち神の民にとって、父なる存在です。 父は、私たちがどんなに恥知らず、恩知らずな罪を犯したとしても、ご自分のもとへと駆けて来て、恵みと愛を求める子には、必ずや助けの御手を差し伸べてくださいます。 むしろ、神様は、私たちの父として、私たちが立ち返るのをひたすら両手を広げて待っておられるのです。 それゆえ、私たちは、自分たちの罪や背きを真摯に悔い改め、神様の愛と憐れみを求めて、神様の御許へと祈りをもって駆けつけるべきです。
何の資格も権利もない私が、御子イエス・キリストの贖いのみわざにより、神様の子どもとなる恵みを受け、全能なる神様のことを「父」と呼べる恵みを心から感謝したいと思います。 子である限り、私たちはたとえどれほど愚かな罪を犯してしまったとしても、悔い改め、父の御許へ戻れば、赦され、受け入れられることを憶えたいと思います。 むしろ、父なる神様はそれを期待して待っていてくださっていることを肝に銘じたいと思います。 神様が過去に与えて来てくださった数々の恵みを思い起こし、素直に、正直になって、自分の罪を告白し、悔い改めたいと思います。 そして、神様の御許へと立ち返り、再び力強い神様の御腕に導かれる恵みの中に生かされたいと思います。 御霊の照らしと導きがありますように。