今日の箇所(イザヤ書 58114)には、神様は私たちの信仰の「形」ではなく、その「実」を見られるということが示されています。

 

イスラエルの民は、バビロン捕囚の憂き目に遭い、自分たちが神様を慕い求めなかったことが苦しみの原因であることを理解しました。 そこで、彼らは断食をして、神様に助けを祈り始めましたが、なかなか状況は改善しませんでした。 すると、彼らは、自分たちは断食したのに、神様はそれを認めようとせず、顔を背けられたままだと文句を言います。

 

その不平に対して、神様は、彼らは断食をしながらも、結局、自分たちの好むことをしているだけであると指摘されます。 彼らは、外面的には神様を敬い、神様を礼拝する姿を取っていましたが、現実の生活の中では、弱者を蔑み、圧迫していたのです。

 

神様は、このようなうわべだけの断食、偽善的な宗教行為を決して受け入れられません。 ただ宗教的な熱心は、人の目には正しく敬虔に見えても、神様の目には忌み嫌うべきものでしかないのです。 祈り、みことばを黙想し、礼拝や祈り会には欠かさず出席し、多額の献金をしていても、実生活の中で弱者を無視したり、蔑んだり、搾取したりといった神様の忌み嫌われることをしているならば、神様の目には決して敬虔とは映りません。 私たちは、謙遜に自分の姿を振り返ってみる必要があります。

 

神様の喜ばれる断食とは、愛をもって行う実践的な行いが伴ったものです。 つまり、飢えた者に食べ物を与え、行き場のない旅人や貧しい肉親など弱い人たちを無視せず、憐れみをもって世話することです。 神様がお喜びになるのは、このような「実」を伴った断食であり、礼拝なのです。

 

そして、そのような実を伴った礼拝を捧げる者を、神様ご自身が責任をもって世話をすると約束しておられます。 神様はその者の傷を癒し、その叫びには必ずや答えてくださいます。 たとえその者が荒野のような環境にいたとしても、神様がその魂を御霊で満たしてくださり、壊れた場所を豊かに立て直す使命を果たさせてくださるのです。 主に喜ばれる者は、潤された園、水の枯れない源のようになり、人を生かす尊い使命を果たすことができるのです。

 

形だけ整えようとする信仰生活に陥りがちな自分を省みます。 周りの人たちに見せるためではなく、自分の自己満足のためでもなく、本当に神様が喜ばれる信仰生活を送りたいと願います。 周りの人たちのことを顧み、自分よりも苦しんでいる人の重荷を共に負い、虐げられている魂を愛と真理によって解放する真の信仰者を目指したいと思います。 主が、自分のありのままの姿に対して目を開かせ、内なる偽善的な部分を示し、悔い改めへと導き、人を生かすことのできる水の枯れない源へと私を造り変えてくださいますように。 御霊の照らしと導きがありますように。