今日の箇所(イザヤ書 541421)には、神様がどのような者をお喜びになり、お救いになるかということが記されています

 

神様は義なる方です。 それゆえ、悪や罪と同居することはできません。 悪や罪を行う者は、神様に裁かれ、最終的には、決して平安を持つことのできない世界、神様の愛も恵みも一切届かない世界・「地獄」に投げ入れられます。

 

ところが、神様はその決定的な裁きを行われる前に、私たちに悔い改めて神様に立ち返るチャンスを与えてくださいます。 私たち人間を愛をもってお造りになった神様は、人間を滅ぼしたいわけではなく、あくまでも私たちに豊かないのちを生きさせたいと願ってくださっているのです。

 

しかし、私たちは、たとえ悔い改めても、再び同じような罪に陥ってしまう究極的な弱さを持っています。 イスラエルの民も、自分たちの罪や欲によって神様から離れ、罪の道に進んだがゆえに、神様に打たれました。 ところが、彼らは、自分たちの苦しみの原因が自分たちの罪にあることが分かっていながらも、悔い改めて神様の御許に立ち返ることなく、悪を行い続けます。 いや、彼らも悔い改め、神様に立ち返ると宣言はしたのかも知れません。 しかし、なかなか自分たちの罪を自分たちの力で取り去ることができなかったのです。

 

神様は彼らのそんな葛藤をご覧になり、人間の内にあるどうしようもない「罪の性質」やその性質に屈服してしまう「弱さ」に対して憐れまれ、彼らが倒れてしまわないように、助けの御手を差し伸べられます。 彼らの罪を覆って、救いを授けるとおっしゃるのです。

 

神様は、御子イエス・キリストを通して、これを成し遂げられました。 私たちが自力では成し得ない罪の贖いと罪の束縛からの解放を、イエスさまの十字架の死と復活を通して、代わりに成し遂げてくださったのです。 そして、自分の弱さを悟って、へりくだって信仰によってこの恵みを受け取る者に、この恵みを適用し、神様の御前に義とみなされる機会を与えてくださったのです。

 

それゆえ、どうやっても自力で罪から自由になれない私たちにとって、残された道は二つに一つです。 図々しく開き直り、罪を犯し続けて、最終的に神様の裁きに遭うか、あるいは、へりくだって神様の与えてくださった恵みを受け取って、神様に義とみなされるか、そのどちらかです。

 

神様の御前で、自分の力では罪の問題を解決できないことを認め、へりくだってひれ伏すことが生きる道です。 神様は、自分の罪の醜さを悟り、心砕かれ、御前にへりくだる者をお喜びになり、そのような者を救い出し、その者に慰めと平安を与え、その口に讃美の実を結ばせてくださるのです。

 

分かっていても、自分ではなかなか自分の罪から離れられない自分の究極的な弱さ、罪深さを素直に認めたいと思います。 それが神様をどれほど悲しませ、神様との関係にどれほどの破れを引き起こしているかということを認めたいと思います。 その上で、開き直るのではなく、へりくだり、神様が憐れみをもって備えてくださった救いの道、イエスさまの成し遂げてくださった十字架の贖いの恵みを信じ受け入れたいと思います。 それだけが、唯一の救いの道、生きる道であることを憶えて…。 御霊の照らしと導きがありますように。