今日の箇所(イザヤ書 57:1-13)には、偶像に拠り頼むことがもたらす最期について記されています。
イスラエルの民は、神様に仕えると口では言いながら、実のところ、偶像に仕えていました。 彼らは自分たちのことを選民であると思っていましたが、実際の姿は偶像礼拝者だったのです。
霊的基準を失ったイスラエルの共同体は、義人が倒れても気に留めず、不義が行われていても関心がありませんでした。 一方で、神様の贈り物である子どもたちさえ偶像に捧げ、偶像を求めて遠くまで出かける労苦を惜しみませんでした。 彼らは、唯一まことの神様に対して、霊的な姦淫を行っていたのです。
私たちも、自分のことを御子イエス・キリストの贖いによって救われた者、神の子どもであるとしながらも、実際は偶像礼拝者として歩んでしまいがちです。 偶像とは、神様以外に自分が頼りにしているもの、追い求めているもののことです。 神様のみこころは何か、聖徒のまったき人生とはどのようなものかということには関心がなく、自分の腹を満たすことや快楽、世が与える富や保証に目が眩んでいる姿は、まさに偶像礼拝者の姿なのです。
偶像礼拝の裏には、必ずや自己愛・利己的な心があります。 「もっと美味しいものを食べ、もっと楽に暮らしたい…。」 この「もっと、もっと」が自己愛の現れです。 自己愛や利己心を満たそうとする追求が、そのうち神様の道を歩もうとする思いを失わせ、子どもさえも犠牲にするほど、その人の人生を占拠してしまうのです。
イスラエルの民も、長い時間をかけて、神様を忘れ、偶像礼拝の虜となって行きました。 彼らは長い間神様から離れ、罪を犯しても、裁きや罰を受けることがなかったので、偶像を礼拝し続けたわけです。 しかし、神様ではないものを礼拝するすべての労苦と努力は、死を招く道です。 神様はそのような生き方をする者に裁きを下されるのです。 人生を揺るがすような大きな問題が起こった時、彼らが仕えていた偶像の真価が表れます。 そんな時、偶像は、何も言ってはくれず、何の助けにもなりません。
私たちが罪を犯している時も、神様が沈黙して忍耐しておられるのは、私たちに悔い改める機会を与えるためです。 誰一人として自分自身の義や成果・達成によって救われることはなく、またどんな偶像も私たちを救うことはできないのです。
偶像の誘惑に惑わされず、最後まで主に身を寄せる者だけが、神様の聖なる山を受け継ぎ、神様の臨在の中で生きることができます。 本当に自分を幸せへと導いてくださるのがどなたであるのかをわきまえ、自分の思いよりも神様のみこころを優先する者だけが、真の祝福と平安を得ることができるのです。
目に見え、手で触れられるお金や人を主よりも頼り、分かりやすい形で自分の欲求を満たしてくれるものを主よりも愛してしまいがちな自分を省みます。 主から離れて偶像を追い求めるなら、虚しく滅びるだけであることを心に刻みたいと思います。 偶像の誘惑に遭っている時も、主の御声が聞こえない暗闇の時も、信仰を失わず、最後まで主だけに拠り頼むことができますように。 日々、みことばと祈りをもって主に近く歩み、深みに陥る前に偶像の誘惑を退けたいと思います。 御霊の照らしと導きがありますように。