今日の箇所(イザヤ書 541117)には、私たち聖徒が受け継ぐ祝福の遺産について記されています。

 

強大国の侵入などにより苦しんでいたエルサレムが、その栄華を回復します。 荒廃した町の基礎が堅く立てられ、外見も宝石のように輝くようになります。 これは、神様の臨在が戻ることにより、エルサレムに栄光が満ちることを象徴しています。

 

エルサレムの町に住まうすべての子どもたちは、主の教えを受けて豊かな平安を味わいます。 神の民の回復は、主の臨在とみことばの教えのあるところに現れるのです。

 

公義によって堅く立つ新しいエルサレム、すなわち教会は、堅く揺るがない基礎であるイエスさまを中心に、聖霊を通してみことばによって変えられた聖徒たちによって堅く建てられます。 神様との正しい関係を回復し、主の臨在とみことばの教えが共同体の中に充満する時、私たちの内面と外面が美しく変えられ、キリストのからだに相応しい教会が姿を現わすのです。

 

そのような教会に手出しできるような者はありません。 神様の主権の下にあるエルサレムは、攻めかかって来る敵をも倒すことができます。 たとえ敵の職人が強力な武器を造ったとしても、神様は破壊者を造ってそれを壊させられます。 また裁きの日に、たとえ敵が訴えて来たとしても、かえってその敵の方がイスラエルによって罪に定められます。 イスラエルを苦しめようとする悪しき試みはすべて、創造主である神様によって敗退するのです。

 

これは、キリストによって贖われ、義とされた聖徒は、誰からも罪に定められることがないこと、神様が責任をもって必ずや守られることを示しています。 世は贖いの恵みを受けた聖徒を倒すことはできず、妬みや嫉妬に駆られて聖徒を攻撃する悪者の方が最期には滅びることになるのです。

 

これが、主のしもべである神の民に与えられ、永遠に受け継ぐことのできる祝福の遺産・受ける分です。 神様の子どもとされているとは、このような祝福が既に私たちのものとなっており、このような祝福の中に生きることが許されているということなのです。

 

今、たとえどれほど苦しい状況にあろうとも、それが私たちの人生の最終章ではなく、必ずや次に回復と栄光の章が待ち受けていることを憶えたいと思います。 そのような回復と栄光の祝福が既に遺産として自分に与えられているという真理をしっかりと心に刻みたいと思います。 神様と正しい関係を回復し、主の臨在とみことばの教えが自分の内に、また共同体の内に充満する時、この遺産が現実のものとなることを憶え、まず主の御前に出て、自分の罪をすべて告白し、みことばに立ち返りたいと思います。 そして、みことばを中心にした生き方、主の臨在の中を歩む生き方を回復したいと思います。 その先に真の回復と栄光が待っていることを確信しつつ…。 御霊の照らしと導きがありますように。