今日の箇所(イザヤ書 54:1-10)には、神様の懲らしめは一時的だけれども、神様の憐れみは永遠であることが示されています。
古代中近東において、中でもイスラエルにおいて、子を産めないことは大変な恥と考えられていました。 イスラエルは、まさに不妊の女、夫に捨てられた女のように、わびしい身の上に転落し、望みもない状況にありました。 彼らには子孫に譲る土地も財産もなく、そもそもそれを譲る子孫もありませんでした。 バビロンに攻め滅ぼされ、捕囚の憂き目にあったイスラエルの民には、もはや頼れるものも望みもなく、ただ毎日を生き延びるという侘しく虚しい日々を送るほかなかったのです。
そんな民に対して、神様は喜び歌えと言われます。 それは、神様が彼らの恥をないものとしてくださるからです。 偶像礼拝の罪のために敵に踏みにじられていたイスラエルに、夫である神様の赦しと救いが臨むというのです。
神様による回復の恵みによって、イスラエルは天幕の場所を拡げなければならないほど繁栄します。 これは、広くは全世界の異邦人に至るまで救いを受け、神の民の数が増えることを暗示しています。 神様との関係が回復すれば、喜びが回復し、信仰によって霊的な子孫を生み、霊的な地境が拡がるのです。
神様は、イスラエルの不誠実のゆえに、しばらくの間、彼らを懲らしめられました。 しかし、時が来れば、変わらぬ愛をもって彼らを回復させられます。 不従順と罪によってバビロンの捕囚となったイスラエルに、再び恵みと愛を注ぎ、もう責めることはないという平和の契約を立てられたのです。
自分の蒔いた罪のゆえに私たちが苦しむ時でさえ、神様は苦しむご自分の民である私たちを見て、私たち以上に苦しんでおられるのです。 罪に対する神様の怒りは大きいですが、憐れみはさらに大きいのです。 神様の懲らしめは一時的ですが、憐れみは永遠です。
昔、ノアの洪水の後、大洪水の水で地を滅ぼすようなことはしないと約束され、それ以降もその約束を誠実に守られたように、神様がご自分の民に対する憐れみと誓いを破られるようなことはありません。 御子イエス・キリストが十字架を通して神様と罪人との間に立てられた平和の契約も、永遠のものです。 それゆえ、私たちは苦しみの中でも失望する必要はないのです。
罪に染まって生きていた私を、御子の血によって聖め、主の花嫁としてくださったことを心より感謝します。 神様が、永遠の憐れみをもって私の恥を覆ってくださる方であることを憶えます。 見捨てられた人生に注がれた神様の憐れみと恵みをほめたたえ、みことばによって霊的な子孫を生み続ける人生となりますように。 御霊の照らしと導きがありますように。