今日の箇所(イザヤ書 511223)には、神の民である私たちが、苦しみの現状や抑圧して来る権力者たちを恐れる必要がない理由が示されています。

 

目の前の現実に対する恐れは、実のところ、神様に対する不信仰の現れです。 バビロンで捕囚生活をしていたイスラエルの民は、恐れに囚われていました。 エルサレムは、イスラエルの罪によって「憤りの杯」、すなわち神の怒りが注がれました。 バビロンによって破壊され、捕囚の憂き目に遭ったのです。 もはやイスラエルを導く者はなく、エルサレムを再建しようと立ち上がる者もいません。

 

私たちが厳しい苦しみを通るのは、決して神様に見捨てられたり、神様から罰を受けていたりするわけではありません。 その苦しみは、神様の懲らしめであり、一種の愛の表現です。

 

力によって抑圧して来る権力者たちに搾取され、苦しむ日々を過ごす内に、イスラエルの民は、目の前の現実、目に見える現状ばかりに目を向け、神様を見上げることを忘れてしまっていました。 しかし、神様は、そんな彼らに対して、「草のように簡単に倒れる人間など恐れる必要はない」と宣言されます。 彼らに注がれていた「憤りの杯」が、今度は彼らを虐げていた敵の上に注がれるのです。 神様は、敵の虐げの前に恐れ震える民に、彼らを解放するという次元に留まらず、継続的な保護と導き、豊かな満たしと祝福を伴う完全な救いを約束されます。

 

ご自分の民に向けられた神様の愛を、誰も邪魔したり、疎外したりすることはできません。 ご自分の民を引き寄せられる神様の愛から、私たちを引き離すことのできる者など、存在しないのです。 私たちの神様がどのような方であるかを信頼する時、無力な世に対する恐れから解放されるのです。

 

それゆえ、私たちはどれほど苦しい日々が続いても、決して失望してはなりません。 神様は、ご自分の御子という犠牲を払って買い戻された民、ご自分の子どもとして受け入れられた者から決して目を離すことなく、時が満ちれば、必ずや救い出してくださるからです。

 

苦しくなると、ただ解放されることばかりに目が行ってしまい、なかなかその糸口が見えないと、落胆し、失望してしまう自分の弱さを認めます。 問題は、目の前の苦しみや問題にばかり目が行っている点であることに気付かされました。 自分のことを、御子を犠牲にしてまで買い戻してくださった神様の愛を信頼し、私のために進んで苦しみを受けてくださった主を見上げたいと思います。 主の愛に目を固定することこそ、苦しみから解放されるための必須条件であり、初めの第一歩であることを肝に銘じて…。 御霊の照らしと導きがありますように。