何処の誰が

何処の誰と

どんな結婚をしようが

どんな生活をしてようが

どんな子育てを選ぼうが

 

何故それが

ただの他人事だと分からないのか。

 

Twitter無料版で

ごにょごにょ呟くしか出来ない自分が

何をどうしたら

誰かに死ねだの

消えろだのと

言える資格を持つのか。

 

誹謗中傷してない!

ただ真っ当に間違いを指摘しただけ!

正しい事を言っただけ!

 

その指摘を受ける側が

指摘なんて一切求めていないのが

分かっているくせに

正論を盾に指摘し続けることは

立派な攻撃だと

とうに気付いているのに

何故それを止めないのか。

 

確かに

 

目立つ事で

お金を稼ぐ人達の中には

その私生活や立ち振る舞い、生き様を

SNSで売り物にする人達は

以前よりも増えている。

 

その結果として

ごにょごにょ独り言を呟く際

彼らの目立つ為の振る舞いに

良くも悪くも影響を受けたまま

反射的に言葉を打ち込む機会が

誰にとっても増えた。

 

反射的な勢いで

一時の感情で口走っておきながら

急いで同じような意見を見付けて

縋るように安心して

「自分は正しい」と思い込もうとする。


が、自身が直接被害を受けた訳でも無いのに

相手への攻撃を止められない気持ちは

完全なる「間違い」であり「正しくない」のだ。

 

どんなに中身を正論で固めたところで

それを相手にぶつける権利が自分には最初から無いのだ。

言いたい、否定したい、突っ込みたい。

その気持ちが強ければ強いほど、

自分が決して正義ではない証拠になる。

 

とは言え黙れないのだろう。

それでも正義だと思いたいのだろう。

言わずにいられないのだろう。

ならせめて呟く前に。

 

「これは自分の勝手な感想でしかない」

「それでもなお呟く意味はあるのか」

「顔を見られながら同じ言葉を自分は堂々と言えるか」

 

それくらい考えてみて欲しい。

あなたが本当に正義の味方なら。

何のネタだったか。

 

分かりやすく

気持ち良くなる為に

見たくなると言う意味において

とある系の創作物とエロ創作物は

似ているという趣旨のツイートがあった。

 

それで思い出したのが

テレビの「スカッと~」という番組だ。

何度か見かけた程度の自分には

【水戸黄門のダイジェスト】な印象だった。

 

世間で言うところの

悪者。悪役。意地悪な人。狡い奴。

威張りん坊。怒りん坊。卑怯者。

つまり【お代官様】的な役が

 

が、

 

世間でいうところの

弱者【町娘】に対して

好き勝手、横暴に振舞う。

 

その様に心を痛めた

力を持った人間【黄門様】が登場して

誰からも批判されないような

真っ当な形で悪者を裁く。

 

裁かれた悪役が

悲惨な目に遭うほどに

悔しがるほどに

 

「ざまあみろ!」

「弱者の痛みを思い知ったか!」とばかりに

いわゆる溜飲を下げる我々。

 

いつの時代にも

法で裁けない【お代官様】はいるので

もちろん様々な裁き方が溢れているが

基本的には同じ形に見える。

 

悪者いる→弱者やられる→悪者裁かれる。

 

桃太郎は鬼をやっつけるのだ。

隣の家の犬を殺した欲深いおじいさんは

お殿様の目に灰を入れて裁かれるのだ。

柿をぶつけた猿は集団仕返しされるのだ。

 

悪いことしてたら

いつか痛い目みるよ裁かれるよって。

だから正義を守ろうって。

勧善懲悪。

それはこの世界で生きる上で

とても大切なもので

ただただ当然の事だ。

 

あまりにも当然すぎて

あまりにも欠かせないものすぎるからこそ

それが実践されていない理不尽な現実に

我々のストレスはいつだって最高潮なんだろう。

 

「ざまあみろ」と

悪者を嘲笑って溜飲を下げ

自身の心が束の間だけ晴れた気がして

弱者が幸せになった後…

また、次の悪者を探し始める。

 

何故か。物語は見終えても

自身の理不尽な現実は

ストレスは終わらないからだ。

すっかり習慣となった溜飲の下げ方は

単純でお手軽で無責任で気持ちいいのだ。

 

自分にとって悪者であればあるほど、

「ざまあみろ」は気持ちいい。

夢中になるほどに。

 

そしてお手軽なだけあって一瞬で消える。

所詮は創作物に見る夢でしかないことも

自身の理不尽な現実が明日も続くことも

誰より自分が知っている。

 

だからこそ

終わらないストレスの中で

吐き出される「ざまあみろ」の先には

儚く、か細い声にもならないような、

祈りのようなものを感じてしまう。

 

誰かの不幸よりも

力のある黄門様よりも

人々が求めているもの。

ずっとずっとひそかに、

けれど渇望しているもの。それは

 

悪事が必ず暴かれて

卑怯者は土下座したり悔しがったり改心したり

善意と善意が呼び合って

努力は多少なりとも何かしらの形で報われて

(報われていると感じられて)

 

正しさを真っすぐに信じられて

優しさを惜しまなくても大丈夫な

 

捨てられない

殺されない

誰もが誰もと守り守られ

安心して生きて行ける世界。

 

そんな子供みたいな願いを

笑い飛ばされそうな祈りを

もちろん口には出せないまま

考えることも億劫なまま

今日も我々はお手軽に「ざまあみろ」と呟く。

 

誰かを何かを嘲って

束の間の快感を得るのだ。

育児休暇を取れる、取れない。

そもそも子供を産む、産まない。

なんなら結婚をする、しない。

 

人生において

これらの決断をする時に

大抵浮かぶのが「仕事」。

 

今の仕事が続けられるかどうか。

人手が足りない職場への迷惑。

 

気遣い。配慮。思いやり。

社会人としての責任。

集団の中の一員としての忖度。

空気読む、雰囲気掴む、流れに乗る。

 

生きる為に仕事が必要な以上、

それらは大切なことで、必要なことだ。

 

けれど、こうも感じる。

 

育児休暇を取った後に

子供を産んだ後に

結婚をした後に

 

「同じ仕事に戻れるか、どうか」

「居場所を空けたままにしておいてもらえるかどうか」

 

ただただ心配なのは、そこでは。

 

自分の不在を埋める為に

新しい誰かを雇われてしまうかも知れない。

自分が得意だった仕事を

誰かに奪われてしまうかも知れない。

 

会社にしても不都合だらけで

 

問題なく回っていた職場が

誰かが抜けて、

その穴をどうにか埋める為に

誰かを連れてきて必死で教え込む。

やっと何とか回るようになったと思ったら

戻ってきた誰かの居場所は?と言われる。

じゃあ、と元に戻す為には

穴埋め要員だった誰かには違う仕事を渡す必要がある。

 

たまたま都合が重なって

事がうまく運ぶ場合もあるけれど、

そんな幸運は正直少ないと思う。

 

誰かが我慢をして

誰かが歯を食いしばって

誰かが声を殺して

誰かが苦虫をかみつぶして

 

そうでもしないと

空いた穴なんて埋められないのだ。

そんな余裕はどの会社にも無い…じゃなくて

そんな余力はどの会社でも

なるべくなら使いたくないのだ。

 

「女性に比べて男性の育休取得率が低い」のは

出産や育児が女性限定のものだと依然考えられているから、

だけではなくて

「男性が

現状での仕事を失う可能性を

会社での居場所を失う危険性を強く感じているから」だ。

 

もちろん女性も同じように感じているけれど

身体的に負担がかかり実際に動けなくなる女性は

物理的に仕事へ行けなくなる出産と合わせて育休も取得する。

 

戻った後に

以前と同じ仕事を任される人がどれだけいるだろう。

 

それでも女性は取得する。他に手が無いからだ。

日毎に大きく大切になっていくものを守るために。

そうして引き換えに得る新たな出会いや経験が

彼女達の何かを埋め、また違う世界へ誘う事もある。

 

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ちなみに自分は

男性と女性を平等に、と聞く度に

いつも違和感を感じる。

 

男性の身体に生理は来ないし、

女性の身体は丸みを帯びている。

 

その事に苦しみを抱く人達の悩みに寄り添う事と

現実の決定的な違いから目を背ける事は

決して相容れないものだと思っているし

相容れないものであって欲しいと願っている。

 

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生きて行く為に欠かせない仕事。

家よりも家族よりも同じ時間を過ごす会社、同僚達。

やりがい、意味合いを少しでも感じなければ

正直やっていられない瞬間も多くある仕事。

 

そんな中、

少しでも「気に入って」いる職場であれば

現状維持を望むのは当然だ。

危うくなる可能性があれば

結婚や出産、育休取得に慎重にもなる。

 

自分の居場所を守るのに手一杯。

誰も悪くない。

けれど確実に子供が生まれにくい。それが

今の社会の形だ。