何のネタだったか。

 

分かりやすく

気持ち良くなる為に

見たくなると言う意味において

とある系の創作物とエロ創作物は

似ているという趣旨のツイートがあった。

 

それで思い出したのが

テレビの「スカッと~」という番組だ。

何度か見かけた程度の自分には

【水戸黄門のダイジェスト】な印象だった。

 

世間で言うところの

悪者。悪役。意地悪な人。狡い奴。

威張りん坊。怒りん坊。卑怯者。

つまり【お代官様】的な役が

 

が、

 

世間でいうところの

弱者【町娘】に対して

好き勝手、横暴に振舞う。

 

その様に心を痛めた

力を持った人間【黄門様】が登場して

誰からも批判されないような

真っ当な形で悪者を裁く。

 

裁かれた悪役が

悲惨な目に遭うほどに

悔しがるほどに

 

「ざまあみろ!」

「弱者の痛みを思い知ったか!」とばかりに

いわゆる溜飲を下げる我々。

 

いつの時代にも

法で裁けない【お代官様】はいるので

もちろん様々な裁き方が溢れているが

基本的には同じ形に見える。

 

悪者いる→弱者やられる→悪者裁かれる。

 

桃太郎は鬼をやっつけるのだ。

隣の家の犬を殺した欲深いおじいさんは

お殿様の目に灰を入れて裁かれるのだ。

柿をぶつけた猿は集団仕返しされるのだ。

 

悪いことしてたら

いつか痛い目みるよ裁かれるよって。

だから正義を守ろうって。

勧善懲悪。

それはこの世界で生きる上で

とても大切なもので

ただただ当然の事だ。

 

あまりにも当然すぎて

あまりにも欠かせないものすぎるからこそ

それが実践されていない理不尽な現実に

我々のストレスはいつだって最高潮なんだろう。

 

「ざまあみろ」と

悪者を嘲笑って溜飲を下げ

自身の心が束の間だけ晴れた気がして

弱者が幸せになった後…

また、次の悪者を探し始める。

 

何故か。物語は見終えても

自身の理不尽な現実は

ストレスは終わらないからだ。

すっかり習慣となった溜飲の下げ方は

単純でお手軽で無責任で気持ちいいのだ。

 

自分にとって悪者であればあるほど、

「ざまあみろ」は気持ちいい。

夢中になるほどに。

 

そしてお手軽なだけあって一瞬で消える。

所詮は創作物に見る夢でしかないことも

自身の理不尽な現実が明日も続くことも

誰より自分が知っている。

 

だからこそ

終わらないストレスの中で

吐き出される「ざまあみろ」の先には

儚く、か細い声にもならないような、

祈りのようなものを感じてしまう。

 

誰かの不幸よりも

力のある黄門様よりも

人々が求めているもの。

ずっとずっとひそかに、

けれど渇望しているもの。それは

 

悪事が必ず暴かれて

卑怯者は土下座したり悔しがったり改心したり

善意と善意が呼び合って

努力は多少なりとも何かしらの形で報われて

(報われていると感じられて)

 

正しさを真っすぐに信じられて

優しさを惜しまなくても大丈夫な

 

捨てられない

殺されない

誰もが誰もと守り守られ

安心して生きて行ける世界。

 

そんな子供みたいな願いを

笑い飛ばされそうな祈りを

もちろん口には出せないまま

考えることも億劫なまま

今日も我々はお手軽に「ざまあみろ」と呟く。

 

誰かを何かを嘲って

束の間の快感を得るのだ。