吉良親実(きら・ちかざね)


生没年・1541~1576

通称・新十郎、左京進


 父は長宗我部元親の弟・左京進親貞で、母は元親の娘。父の跡を継いで吾川郡弘岡の吉良峰城主となるが、のちに高岡郡蓮池城に移った。
 天正14年(1586)秀吉の命令で大仏殿建立用の木材を提供するように言われた元親は材木の伐採搬出の監督に久武内蔵助親直を任命して作業に当たらせていた。このとき親実も現地に出張していたのだが、川岸で出会った親直が礼をしなかったため、怒って弓で親直のかぶっている笠を射落としたことから二人の仲は悪くなった。
 天正16年信親の死により、継嗣問題が長宗我部家に起こると、四男・盛親を跡継ぎにしようとした元親に比江山親興と共に反対し、諫言した。
 だが、親直は元親の意見に賛成して、親実と対立したのである。結局、後継者は盛親と決定したため、元親は親実に切腹を命じた。
 使者として親実の館を訪ねた桑名弥次兵衛によってこの命が伝えられると、親実は小高坂で自刃した。26歳の若さであった。
 死後、親実にまつわる怨霊話が相次いだため、のちに吾川郡木塚に建立された木塚明神に祀られた。