戸波親武(へわ・ちかたけ)


生没年・不明

通称・右兵衛または長宗右兵衛とも


 父は長宗我部国親の弟・国康、盛親の家督相続の際に反対して元親に処罰された比江山親興である。
 初めは長宗右兵衛(ちょうそ・うひょうえ)と名乗っており、家中でも長宗我部一門として信望が厚かった。永禄12年(1569)幡多郡一条氏に属していた高岡郡の蓮池城攻略のとき、一部の兵が城を逃れて同郡の戸波城に立て籠もったので、親武はこれを追撃し、元亀元年(1570)城を落とすことに成功した。この功により親武が戸波城主に任じられたことから、地名を取って姓を長宗から戸波に変えた。
 その後は元親の四国統一戦争に従軍して活躍し、天正12年(1584)に讃岐国十河城主となり、元親が土佐に帰国した後には城番として監視の任についていた。
 豊臣秀吉の四国征伐では彼を信頼した元親の命により、新たに築かれた植田城守備の任につき、黒田如水、宇喜多秀家らの軍勢と戦った。この植田城は讃岐国での決戦の地とされた長宗我部軍の重要拠点だったことからも、彼がいかに元親に信頼されていたかがわかる。
 しかし、天正17年の検地以前に死去したとされている。息子に戸波親清があった。