津野親忠(つの・ちかただ)
生没年・1571~1600
通称・孫次郎
元親の3男、盛親の兄、土佐国高岡郡姫野城主、有力豪族の津野勝興の養子となりこの地域を領した。土佐でも有数の良港、須崎に屋敷を構え、人々からは「名君」と呼ばれていたらしい。
四国征伐後、親和の代わりに秀吉の下へ人質に出され、ここで豊臣家の武将・藤堂高虎と親交を深める。
長兄・信親の戦死後、まもなく次兄・親和も病死した為、跡継ぎ候補と目されるが、家督は弟・盛親に譲られたことを知り、相続に無関心を装うが元親に将来を危険視されて、香美郡岩村に慶長4年(1599)幽閉された。
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで盛親率いる長宗我部軍が敗北すると、「家康から藤堂高虎を介して親忠に土佐半国が与えられる。」との噂が広まり、警戒感を強めた家老・久武内蔵助親直が盛親を通じて親忠を岩村孝山寺にて切腹させた。
親忠の墓所は現在、香美郡津野神社内にある。