吉良親貞(きら・ちかさだ)


生没年・1541~1576

通称・左京進

官位・播磨守

子・親実、如淵


 国親の次男で元親の弟、永禄6年(1563年)に源氏の流れを汲み、土佐の有力者の一人であった吾川郡の吉良氏に、本山茂辰の跡を継いで養子入りした。性格は剛毅で知略に優れた人物であった。主に土佐国西側の攻略に尽力し、永禄12年には一条氏に属していた高岡郡蓮池城、戸波城を攻略、次いで久礼城主の佐竹信濃守を内応させた。一条氏の本領幡多郡攻撃を前に、父・国親が長宗我部氏再興の恩を受けたことから一条氏攻略を躊躇する兄・元親に対し、「その罰、私が受けましょう。」と説得したという。
 一条氏が土佐大津に移動した後は城代として幡多郡一円を支配した。
 しかし、天正4年(1576)7月15日、36歳という若さで早世した。彼がもう少し長く生きていたら四国統一は数年早まったといわれている。