福留親政(ふくとめ・ちかまさ)


生没年・不明~1577

通称・隼人・飛騨守


 名字の福留は福富とも書く、同氏は親政の祖父・房照の代から長宗我部氏に仕えた。
 力量・知略ともに優れていたことから、あらゆる戦いで戦功をあげ元親から21回の感状を与えられた。また、「親」の一字を拝領し親政と名乗り、家紋も長宗我部氏の七鳩酢草(ななつかたばみ)から1つ減じた六鳩酢草を使用した。
 永禄6年(1563)安芸国虎が岡豊城に攻め込んだ際には熊谷伊豆守と共にこれを守り、安芸氏の大軍を追い払った。これは後に「福留の荒切り」とよばれるようになった。
 長岡郡田辺島城および土佐郡秦泉寺城を預けられて長宗我部氏の重臣として重きをなしたが、元親が伊予へ出陣した時に、先陣を務めその途上天正5年(1577)3月9日に戦死した。
 遺体は田辺島山上に葬られたという。