香川親和(かがわ・ちかかず)
生没年・1567~1587
通称・五郎次郎
元親の次男、盛親の兄、讃岐の有力豪族・香川信景の養子となり、香川家を継ぎ天霧城に入る。
中富川の戦いが起こると讃岐勢を率いて参戦するなどの戦功があるが、四国征伐の後、讃岐6郡を支配していた香川家は改易されてしまう。
1585年頃、元親が秀吉と大坂で対面した際、親和は3男親忠と交換で秀吉の人質に出される。
1586年大和郡山にいた親和は四国への帰国を許されて岡豊城下に居住した。この年の九州征伐で兄・信親が戦死したのをうけて秀吉から「家督相続を認める朱印状」がもたらされ、次期当主に選ばれると思われたが、元親からの相続に関する沙汰はなく、ただ捨扶持を与えられたに過ぎなかった。
元親が盛親を後継者にしようとしている事を知り、気に病んだ親和は自ら食を断って死をえらんだといわれている。
親和の墓は一族の墓所には葬られず、岡豊山の北小野谷に小さな墓石がひっそりとたたずんでいるのみである。