谷 忠澄(たに・ただずみ)


生没年・不明~1600年

通称・忠兵衛



 土佐郡一宮の土佐神社の神職についていたが、知力に優れた人物だったことからやがて元親に仕え、滝本寺非有(忠澄の弟といわれる人物)と共に長宗我部氏の外交を担当した。
 天正13年(1585)秀吉による四国征伐の際には、阿波国一宮城を江村親俊 と共同して守り、羽柴秀長軍の増田長盛 ・藤堂高虎らと対峙した。やがて長宗我部軍が各地で敗退し戦闘のゆく末に危機を感じた忠澄は秀長と和睦するよう元親を説得する。当初は怒りに触れて切腹させられそうになったが、ついには忠澄の熱意に元親が折れて和睦が成立した。この結果、長宗我部氏は土佐一国に押し込められるかたちとなった。
 天正14年12月豊後国において行われた戸次川の合戦に参加。戦後、元親の長男信親の遺骸を探すため島津氏への使者となりその遺体を火葬して高野山の奥の院へ遺灰を納めた。さらに、この戦いで犠牲になった土佐兵700人を供養するための石塔婆を建立した。
 のちに幡多郡中村城の城代となり土佐の西側の防衛にあたるが、慶長5年(1600)11月7日長宗我部氏改易と時を同じくして亡くなった。享年67歳。
 谷忠澄は長宗我部一門や三奉行、吉田一族と共に長年にわたって長宗我部氏を支えた功臣といえるのではないだろうか。