安藤重信(あんどう・しげのぶ)


生没年・1557~1621

通称・彦十郎・五左衛門尉

官位・対馬守


 弘治3年(1557)三河に生まれ、天正12年(1584)徳川家康に従い小牧・長久手の戦いに参加、戦功を挙げる。慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦には家康の息子・秀忠の軍に属して信濃国上田城攻めに参加したが、真田軍の抵抗に手を焼き、関ヶ原での決戦に遅れてしまう。
 慶長16年ごろから徳川幕府の加判の列に加わるようになり、しだいに重んじられる。また、下総国香取郡と結城郡の中から1万石の所領を与えられた。
 慶長19年(1614)大坂冬の陣には徳川方に組し、戦いで功を挙げたほか、講和後も大坂に残り堀の埋め立て監督を勤めている。翌年に行われた夏の陣にも従軍して戦い、大坂落城後は井伊直孝らと共に豊臣家の処分を担当する。山城国八幡の葦原で捕らえられた長宗我部盛親 の取り調べにも立ち会い、その功によりこの年、所領を2万石加増された。
 元和5年に安芸国広島城主・福島正則が改易されると、これについての沙汰を行うため広島に赴き、上野国高崎に5万6000石を与えられた。
 元和7年6月29日、65歳で死去。法名、大誉良善栖岸院。遺体は江戸麹町の長福寺(後に栖岸院)に葬られた。