2024年6月20日(木)くもり

 

中央大卒のHさん(友人のOさんも同大卒)の案内で、神田・お茶ノ水を歩きました。

わたしも含めてみんな法大通教卒の歴史好き仲間。

お茶ノ水橋口改札に集合。

 

「神田は江戸最初の町で、神田明神が置かれ、神田上水が通された。

江戸城に接した職人町、商人町で、周りはお屋敷町に囲まれている。

戦時の空襲で焼失してしまった下町の中で、

神田から神保町にかけては焼け残った部分があり

そこに残る昭和の町の雰囲気を見つけながら歩こうビックリマーク」とHさん。

まずは「駿河台」についての説明

 

ここは「神田山」と呼ばれていた場所

「神田山」の土をもって江戸城の南に広がっていた日比谷入江が埋め立てられる。

 

「駿河台」の地名の由来には諸説あり、家康が駿府で死去した後、

駿府から移ってきた家康付の旗本が住んだ台地、

あるいは駿河国の富士山を遠望できた台地などがある。

(広重 名所図会御茶ノ水之図)

なるほど、かなり高台です。

台地の下には開削によってできた渓谷の「神田川」が流れています。

 

 

御茶ノ水石碑

駅前のこんなところに、風情のある湧き水??

 

お茶ノ水の由来が書いてありました。

二代将軍秀忠公が、鷹狩の帰りに高林寺境内の湧き水でお茶を飲んで、

大いに喜び、「お茶の高林寺」と呼ぶようになり、

その後、周辺地域が「お茶ノ水」と呼ばれるようになった、とのことです。

 

楽器のお店が並んでいます。

昔、ギターを買う弟と一緒にこの辺りのお店をまわったことがありました。

 

学園祭でロックをやった弟の演奏を聞きに来たことがあり・・・

まるで変ってしまった大学の様子にビックリびっくり

ここが明治大はてなマーク

驚きつつハッ明大通りを下ります。

 

法政大学発祥の地碑

こんなところに「法政大学」気づき

法政大学の前身である「東京法学社」は、

明治13年(1880)ここに設立されたとあります。

 

たくさんの大学が駿河台に集まった??

 

江戸幕府崩壊により、この地に住んでいた幕府の旗本たちが去ってしまい、

残された多くの空いた屋敷や土地があった為、といわれています。

 

明治維新後、法律家を養成する教育機関が次々と誕生。

 

明治、中央、専修、法政に早稲田を加えた5校は、

「五大法律学校」と呼ばれていたそうです。

 

中央大学駿河台キャンパス

中央大学はここに残る校舎だけとなり、八王子に移転しました。

「移転反対運動をしたパンチ!」という二人。

当時の思いを熱く語るHさんプンプン

 

中大駿河台校舎跡之碑

京大の滝川事件は中大法学会主催の刑法学講演会が発端。

天皇機関説の美濃部達吉博士は中大講師だったんですね!

 

1951~1970年の20年間、司法試験合格者は東大を押さえて堂々一位拍手

 

1955年には、この講堂で自由党と民主党が合体して自由民主党が結成されたとのこと。

 

数多くの歴史の転換点があった中大講堂。惜しかったです。

 

御茶ノ水仲通り

エゴノキ、ヤマザクラ、イロハモミジなど植栽が美しい通り。

 

ベトナム反戦運動や反安保闘争、そして学費値上げ反対闘争など、

学生運動が盛んな時期。

学生が入り乱れて討論したり、校舎がバリケード封鎖されたり、

「神田カルチェ・ラタン闘争」もあり、荒々しく雑多な町だったむかっ

 

HさんOさんは、当時の様子を語ってくれました。

 

半世紀以上過ぎて、すっかりオシャレな町になっていましたスター

 

太田姫稲荷神社

太田道灌の娘が天然痘にかかり、京都の「一口稲荷神社」を勧請。

大きな椋の木。

 

駿河台下交差点

明大通りを下って靖国通りに出ます。

 

靖国通りは関東大震災の復興事業によって開通した通り。

 

交差点を渡った右側は戦災で焼け残った区域です。

 

靖国通りは九段下から須田町にかけて、地形的に一番低い部分を通っています。

 

①②③の背後に広がっているのがお屋敷町。

 

「眺望ポイント」は昭和33年のものなので、今は見下ろすことは難しくなりました。

(図『地図物語 神田・神保町』より)

 

神田すずらん通り

震災前までは、東西に走る繁華な通りはここ「すずらん通り」でした。

 

文房堂

明治20年(1887)創業。

重厚な堂々たるファサ―ドキラキラ

猫グッズが充実しているようです猫足あと

 

はちまき

11時開店、混むので早めに来ましたがもう店内は満席に近く・・・

暫し、待ちました。

 

錚々たる顔ぶれの写真が店先に飾ってありました。

 

江戸火消しの家柄の佐野周二(なかなかのイケメンキラキラ)とは旧知の仲、

江戸川乱歩は常連客だそうです。

乱歩の横は海音寺潮五郎。

 

明治15年創業の仕出し割烹「魚安」を継いだ青木寅吉

 

関東大震災後、昭和6年に神田富山町で「はちまき」として再開。

 

(震災で堀に落ちた寅吉を救ってくれた人夫が

「はちまき」を外して助け出してくれたことに由来するそうです。)

 

その後、東京大空襲で被災し、露天で店を繋ぎ、昭和20年にここに移転。

天丼(海老2本、キス、イカ、野菜)味噌汁つき 900円。

黒い箱の中は生姜の漬物。

 

たっぷりの量で、甘めのタレ。

あっさりしていて、胃もたれもせず、美味しくいただきました。

 

店を出た時は、10人ほどの行列ができていましたあんぐり

やっぱり人気店キラキラ

 

この後は明大博物館へ向かいます走る人