2024年5月19日(日)
古河駅に集合して古河宿から野木宿を目指して歩きます。
今日は曇りで歩きやすい一日です。
町割りの特徴
古河城の主要な出入口が北側にあり、西側に渡良瀬川があることから、
城下町・宿場町が城の北側と東側に集中していることである。
このために城と上級武士の住居が低地にあり、
町人や下級武士の住居が台地上にあり、他の城下に見られない個性的な景観をなしていた。
(Wikipediaより)
日光街道古河宿道標
二丁目交差点の角に、大きな道標。
石造りで常夜灯型式、左日光道、右筑波道とあります。
鍛冶町は、江戸時代に野木町野渡から鍛冶職人が移転したといわれ、明治期以降は卸問屋の町として栄えてきました。
メイン通りとなる鍛冶町通りには、明治から大正期の店蔵・煉瓦蔵・座敷蔵などの伝統的な町屋が現存しており、この間、街中再生プロジェクト事業として”蔵を活かしたまちづくり”が進められてきました。
地域が長い時間をかけて大切にしてきた資源や景観を最大限に活かしたまちづくりプロジェクトのひとつが「みらい蔵」です。
杉並通りの武家屋敷
武家屋敷のおもかげを残す街並みと調和してなかなかの景観をかもしだしています。
この通りは、赤レンガと雪華をイメージして造られた道です。
よこまち柳通り ここは往時、旅籠や茶店等が軒を連ね、花街でもありました。
国登録有形文化財指定の「武蔵家」土蔵造りの二階建て。
鰻料理店「国登録有形文化財のお店でお昼を食べてみようか」
吹き抜けの部屋、130年の建物を大規模改装して昨年新装オープンしたお店。
女性陣は「焼き鳥丼」1450円 ボリューム満点で美味しかったです。
江戸末期には「漆楼」という遊郭でした。この辺りは遊郭通りだったんですね。
(写真はお店にあった古地図)
(昭和39年の写真)大勢の芸者さん、賑わっていた宴会・料理屋の「武蔵家」
古河市の観光案内にはここが遊郭通りだったことは書かれていませんでした。
ちょっと一休み
野木町煉瓦窯
少し遠回りして煉瓦窯を見学。
野木町煉瓦窯はホフマン式の煉瓦窯です。
明治23年(1890)~昭和46年(1971)の間に多くの赤煉瓦を生産し国や地域の発展に寄与。
日本の近代化に貢献した貴重な産業遺産です。
庭の手入れが素晴らしく、バラが咲き誇っていました。
秋にはメタセコイヤの紅葉が美しいそうです。(とちぎびよりさんのブログより)
女子組「カフェでソフトクリームを食べたかったね~」
残念ながら 時間がなくて先へ急ぎました
野木神社
およそ1600年前、仁徳天皇の時代の建立。
日露戦争の2年前、乃木大将は「のぎ」の縁から指揮用サーベルを奉納しました。
境内入口となる鳥居のそばに、多数のフクロウのモニュメントが置かれていました。
推定年齢650年以上の大ケヤキ。
垂れ下がった気根の様子から、母乳の出ない人の厚い信仰があるといいいます。
大勢の人がカメラを向けていて
この森に住みついている野生のフクロウを見に集まった人たちでした。
Bさんが素早くフクロウを見つけて「ホラ、あそこ」と教えてくれました。
赤ちゃんフクロウの後ろ姿
望遠カメラを持った方から見せていただきました
ちょうど子育て時期だったためリアルフクロウが見られました
まん丸なふわふわの後ろ姿、どんな顔をしているのかな
社殿に飾られた赤ちゃんフクロウの写真。可愛いです
煉瓦をめいっぱい使った家
ひまわりは野木町の花
野木町のひまわり畑に咲く30万本のひまわりは圧巻でしょうね
木戸跡
満願寺
門前には元治元年(1864)建立の十九夜塔。
野木の一里塚跡
植栽に覆われて標識が隠れてしまいそう
高良神社(こうらじんじゃ)
源頼義・義家親子が「前九年の役」の戦勝祈願に、九州久留米の高良神社を勧請したもの。
「たからじんじゃ」と言っていたら、通りがかりの人が「こうおらじんじゃです」
「(・_・D フムフム、高良健吾って俳優がいるね」
古びてひっそりとした神社、きれいに掃き清められていました
やっと野木駅到着、今回は疲れました
次回は野木駅から間々田宿まで。暑くならないことを願ってます