第23回 史跡めぐりの会 三ノ輪~吉原 | 街道歩き

街道歩き

2022年東海道五十三次完歩後、いろんな街道歩きをしています。

2024年4月6日(土)くもり (A日程)

 

樋口一葉『たけくらべ』の舞台と、幕末・戊辰戦争の痕跡を訪ねます。

 

写真は昨年秋に下見をした時のものもアップします。

 

地下鉄南千住駅南口に集合。

今回は20名の参加です。

 

延命寺

ここで20万人以上が処刑され、刑死者供養のための「首切り地蔵」の大きなお姿。

 

小塚原回向院

入口には吉展地蔵尊

 

戦後最大の誘拐殺人事件。私たち世代には記憶に残る悲惨な事件でした。

安政の大獄で斬首された吉田松陰の墓や、明治維新殉難志士の墓があります。

観臓記念碑

杉田玄白・中川淳庵・前野良沢が刑死者を解剖し「解体新書」翻訳刊行を記念したものです。

 

 

南千住仲通り商店街、昭和の佇まいのある商店街を歩きます。

 

円通寺

黒門 慶応4年(1868)上野戦争で焼け残った寛永寺の総門(冠木門)

 

当時の戦いの激しさを伝える無数の弾痕に、驚きを声をあげるメンバーガーン

 

彰義隊の墓碑群・よしのぶ地蔵など見て回りました。

 

ジョイフル三ノ輪商店街から路地を抜けます。

 

いろんな業態に姿を変えて来た古いビルを見上げて、「どんな人が住んでいたのかなぁ?」

 

5月12日・B日程 バラが満開でした赤薔薇ピンク薔薇

 

都営荒川線三ノ輪駅、都内に唯一残る路面電車の起点・終着駅。

 

この辺りは昭和がそのまま残っているような場所です。

 

左手が浄閑寺。前の道路が日本堤、少し高くなっています。浅草の今戸橋まで続いていました。

隅田川をチョキ舟に乗って吉原へ。堤の上にはたくさんの屋台が並んでいます。

広重 「よし原日本堤」

 

浄閑寺

新吉原で亡くなった遊女たちが投げ込むように埋葬されたことから投げ込み寺とも呼ばれています。

 

新吉原総霊塔

江戸~明治~大正~昭和380年間に投げ込み葬られた遊郭関係者2万5千の霊を慰める塔。

 

「生まれては苦界 死しては浄閑寺」の句が刻まれています。

 

永井荷風筆塚・詩碑

遊女たちに特別な思いを持つ荷風は、この寺をよく訪れていました。

 

墓を作るなら「「浄閑寺」にと言っていた荷風でしたが、実際は雑司ヶ谷墓地の父の墓の横に埋葬されました。

その後、荷風を敬愛する文壇人有志によって「小筆と歯」が納められた筆塚が建立されました。

 

江戸・明治の文化や歴史が、遊女とともに消えていくことのはかなさを、人一倍感じていた荷風の詩碑と筆塚は、総霊塔の前にあります。

・・・・

われは明治の兒ならずや。
去りし明治の世の兒ならずや。

「震 災」 「偏奇館吟草」

 

千束稲荷神社

一葉の胸像と日記の自筆碑文があります。

 

5月12日・B日程 桜の季節は終わって、新緑がきれいでした。

 

一葉旧居跡碑

一葉の住居跡。

 

二軒続きの借家(左側)で駄菓子小間物店を開きました。

「雪晴れの朝 樋口一葉女子宅」長谷川清 画 一葉記念館

 

一葉が住んだ頃の現茶屋町通り。吉原の西側隣りです。一葉記念館

 

『たけくらべ』の舞台となった遊郭裏手の場所。

 

この地図を眺めていると、美登利や信如ら少年少女が飛び出してきそうです。

 

飛不動

住職が大和国大峰山に不動尊像を持って修行に行ったところ、

その不動尊が一夜にして当地へ飛び帰り、人々にご利益を授けたという伝承から「飛び不動」と呼ばれる。

 

航空安全の守護神として信仰を集めています飛行機

 

いよいよ吉原へ、お歯黒どぶの跡を歩いて行きます。

 

ズラッと並ぶ「お風呂屋さん」黒い車の先は「角海老」です。

現在の「角海老」は「角海老楼」とは関係ないそうです。

角海老楼

新吉原角海老楼時計塔 - 明治の時計塔(東京) (kodokei.com)

明治40年代の写真。

角海老楼の時計塔は東京の名所としても有名で絵葉書にもなりました。

当時、角海老楼は吉原随一の大楼で格式が高く庶民は近寄れなかったと記録に残っています。

 

明治44年の吉原大火で焼失するまで東京の名所でした。

『たけくらべ』にも「角海老が時計の響きもそぞろ哀れの音を」とあります。

新吉原角海老楼時計塔 - 明治の時計塔(東京)より

 

吉原公園、道路よりも一段と高くなっています。道路はお歯黒どぶのあっったところ。

 

お歯黒どぶの石垣擬定地

吉原遊郭は文字通り「郭」囲まれた場所。周囲は幅5メートルの堀が張り巡らされていました。

 

太田記念美術館HP

青い四角で囲まれたところが新吉原遊郭。青い部分が「お歯黒どぶ」です。

 

 

この角に「カストリ書房」がありましたが、吉原弁財天の前に移動しました。

 

5月12日・B日程では、ここは更地になっていました(写真撮り忘れましたアセアセ

 

 

あしたのジョー像

山谷のドヤ街に立つジョーのカッコよさに酔うのは、団塊の世代だけかな?

 

ジョーとOさんラブラブ

 

桜肉鍋中江(国登録有形文化財)

創業明治38年、吉原には20軒以上の桜鍋の店がありましたが、残っているのはここだけ。

 

土手の伊勢屋(国登録有形文化財)

創業明治22年の老舗天ぷら屋。関東大震災で全壊し昭和2年再建。東京大空襲で焼け残る。

 

見返り柳

吉原で遊んだ男たちが帰り道にここで遊郭の方を振り返ったという。

 

有名な柳があまりにみすぼらしくて悲しい

 

5月12日・B日程 見返り柳は少し葉を茂らせていました。

 

吉原大門跡


吉原遊郭の唯一の入り口だった大門。

 

黄色の矢印は「お風呂屋さん」紹介の店。当時の引手茶屋の名残。

【もんじ】古写真 新吉原大門-しんよしわら おおもん|福地櫻痴揮毫 春夢正濃満街桜雲 秋信先通両行燈影|撮影 小川一真 | NOTES ON TYPOGRAPHY (robundo.com)

明治14年頃の吉原大門。門の先は花魁道中のあったメインストリートの仲之町。

 

桜の季節には、桜を運んで桜並木を作りました桜桜桜桜桜桜桜

遊郭はなくなったが、「お風呂屋さん」として営業を続けている吉原。

 

吉原神社

吉原遊郭の鎮守。

 

吉原弁財天

関東大震災で多くの人が弁天池に逃れ溺死した。その供養のため観音像を造立。

 

一葉桜

少しづつ花開いていました桜

 

カストリ書房

「遊廓専門店」吉原弁財天の前に移転しました。

 

店主の渡辺さんは、

遊郭という歴史にまつわる人々の想いの一部を受け止める存在でありたいとのこと。

 

鷲神社

浅草のお酉様。酉の市では全国一の賑わいだそうです。

 

「玉梓乃碑」一葉が半井桃水に宛てて書いた未発表の書簡文。

 

一葉本人の書、流麗すぎて、残念ながら読めませんでした泣

 

太郎稲荷神社

『たけくらべ』の美登利が願掛けに毎朝参拝した神社。

一年前は鳥居などがかなり痛んでいましたが、修復を終えてきれいになりましたキラキラ

 

大正小学校

大正5年東京市下谷区入谷町に大正尋常小学校として開校

歴史と伝統を誇る下町の小学校です。

 

壽光稲荷大神

説明板もなく、由来などよくわかりませんが、人を惹きつける稲荷社でした。

 

5月12日・B日程 明治33年に植えられた藤の木が見事でした。

奥に由来板がありました!!

 

小野照崎神社

社伝によると、仁寿元年(852)創建、社殿は慶応2年(1866)造営。

祭神は平安時代の学者・歌人の小野篁。

 

芸術面に関わる人物にも親しまれていて、
樋口一葉の『たけくらべ』にも「小野照さま」の名で登場しています。

 

予定の行程を早めに終わったので、付録として散策しました。

 

旧陸奥宗光邸

この時代の木造建築は珍しいと、皆一斉に写真を撮っていましたカメラ

 

傷みが激しいので何とかして修復して欲しいねと言いながら、立ち去りがたいメンバーキューン

5月12日蔦に囲まれていました。

 

鍵屋

安政3年(1856)に酒問屋として創業し、

店の一角で酒を飲ませるようになったことに端を発して居酒屋となり、言問い通りで営業。

 

ここは大正元年築の日本家屋を改装したもの。

 

「江戸東京たてもの園」にある創業時の建物。

台東区下谷の言問通りにあった居酒屋です。
震災・戦災をまぬがれた鍵屋は、1856年(安政3)に建てられたと伝えられています。

江戸東京たてもの園HP

 

恒例の親睦会。

I大の大学院で博士号を取得された先輩のHさんのお祝いの会にもなりました。

私たち通教のエースで、後輩の卒論指導もしてくださり、お世話になった人は数知れず。

 

研究したり、史跡めぐりをしたり、いろんなやり方で歴史に向き合っている私たちです。

 

楽しく盛り上がったひとときでした飛び出すハート

 

来月は違うメンバー(B日程)で歩きます。

 

5月12日(日)くもり(B日程)

所々に写真を載せてあります上矢印

 

参加者9名で、鶯谷「呑兵衛」で打ち上げ生ビール生ビール

 

メンバー顔出しOK写真を載せました。

 

少人数で交流ができて楽しかったです飛び出すハート

 

特に、親の介護や実家の片づけなど、身近な話題に花が咲きました。

 

秋の史跡めぐりも楽しみです乙女のトキメキ